俺のブタを返せ。というコピーの簡潔な力強さ。
愛の喪失という簡潔な表現で言い表される状況は、しかし、その簡潔さとは裏腹に、人にとってどれほど複雑で深刻な状況をもたらすのかということを、それでも簡潔に描いていた。
最も閉じているように見えた人間が、最も開かれており、最も開かれているように見える人間が、最も閉じていた。
この映画が描いた太いデッサンラインの1つであるこうした機微は、少年期からの逆説として(逆説などという言葉を知らなかった頃から)、僕にとっての宿命の1つにもなっている。
山小屋で、1匹の豚とひっそりと暮らす1人の男(ニコラス・ケイジ)。触れ合いがあるのは、豚と一緒に採ったトリュフを買いつけにくる若い男(アレックス・ウルフ)のみ。しかし、その際もほとんど口をきかない。
ある日、暴力的に豚を奪われた男は、山から街へ下り、若い男を巻き込みながら捜索する。その過程で、男と若い男がそれぞれに抱える事情が明らかになっていく。
そうした意味では、バディものでもあり、男にとっては愛の喪失の物語であり、若い男にとっては父と息子の話(オイディプス神話)であり、若い男の父親にとっても、別のかたちでの愛の喪失の物語だった。また、2人で立ち寄ったフレンチ店のシェフとのやりとりも、別の意味での愛(情熱)の喪失を描いている。
そして、最も閉じているように見えた男が、すべての登場人物のなかで、最も開かれていたことが分かる(彼はすべての料理を覚えており、もてなしたすべての客を覚えている)。いっぽうビジネスで大成功し、街全体に最も開かれているように見える若い男の父親こそが、最も閉じた人間として描写される。
こうした語りが2021年のアメリカで語られ、今の日本に生きる僕にとっても力強く感じられる理由は、この作品に象徴される「開かれと閉ざされの逆説」が、普遍的であると同時に、時代的な気分を簡潔に表しているからのように思う。
男は愛する対象を失いながらも、愛を失っていない。若い男の父親は、愛することを見失ったために、愛さなければならない対象を失っている。
こうした現象は、僕自身がこのFilmarks上で、そっくりそのまま体験している。本当に、何度も。そのため、上記のコピーはこんなふうにも言い換えられるかもしれない。
お前のブタを探せ。
ブタとは関数であり、ここには愛、時間、情熱など、その人それぞれのものが入る。重要なのは「その人」にとってのものであり、他人のものを入れてはならない。