世界という言葉を聞いたときには、世界地図や地球儀に象徴されるような、ある客観性の総体を思い浮かべるのが、ごく一般的な受け取り方だろうと思う。また、その世界像では、世界(客観)は個人(主観)と無関係に存在しており、個人は世界の一部分でしかない。
こうした素朴な世界像は、「主観と客観」という二元論で語られるものであり、僕たちが何の問題も抱えず普通に生活するうえでは、素直に受け入れられるものであり、破綻することもない。
また、学校や会社などで触れ合うことになる、友人や先生や同僚や上司などが、自分の意のままにはならない他者として存在しており、この世界像は無意識的に強められてもいる。しかし、こうした世界像がまったく意味を成さなくなるような状況を、僕たちは様々な形で経験することにもなる。
あるときには失恋であったり、誰かとの死別であったり、受験に失敗することであったり、失業することであったり。こうしたときに、それまで確かだと思っていた世界(客観)と個人(主観)の関係が転倒するような内的体験を、僕たちは通過することになる。
大きな喪失のなかで、失われたのは自分ではなく、世界のように感じられるのはなぜか? そうした人間の心の在り方を、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)は、主著となる『存在と時間』において解き明かそうとした。
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ハイデガーは、この謎を解明するために人間を「現存在」という概念で捉える。人間の意識は、過去・現在・未来という時間を、客観的事実に基づいて捉えているのではなく、意識的にであれ無意識的にであれ、過去の出来事を取捨選択している(既在)。また、未来(将来)へと目的を投げかけることで(投企)、今このときを生きている(現成化)とする。
ここでポイントになるのは、意識の恣意性(しいせい:必然ではないこと)かと思う。過去に対しても未来に対しても、人間は恣意的に生きており、意識とは、恣意的な時間性から生まれている。そして、このことを言い表すために、人間を「現存在」であるとした。
たとえばスマホは、ある人にとってはコミュニケーションを満たす社会そのものであっても、別の人にとっては、電話という1つの通信手段に過ぎない。また、法律は法曹界に生きる人にとっては生活の糧であっても、問題なく過ごしている人にとっては、普段意識されることさえない。
この誰々にとってということを、ハイデガーは「目的」と呼ぶ。このわたし(現存在)にとっての世界は、1人1人で異なる目的によって、無数の存在の仕方をしている。そして、この無数の存在の仕方、つまり意識の恣意性のなかに生きている状態を、「世界内存在」であるとした。
さらに彼は、この恣意性を意識できていない状態を、「非本来的」であるとする。恣意的であることがいけないのではなく、そもそも人間は恣意的な存在であることに、気づけていないことこそを問題にしている。
死を目前にした人が、はじめて人生の意味や価値を悟るとされるように、普段、意識することのない日常のさまざまな出来事は、このわたし(現存在)にとっては必然ではなく、瑣末(さまつ)なものであることが多い。その恣意性を十分に理解したうえで、交換不可能なこのわたし(現存在)の決断によって、世界を意味づけていくことこそが「本来的」な生き方であると彼は言う。
つまり、恣意的な意識の連続性として現れる、こうした「時間」のなかにこそ、「存在」することの根拠が宿っているとハイデガーは述べている。
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こうした人間存在の在りようを背景として描いたのが、ジャコ・ヴァン・ドルマル長編処女作『トト・ザ・ヒーロー』だろうと思う。
また、ジャン・コクトー(1889-1963年)の『恐るべき子供たち』も、おそらくは下敷きにしており、弟トマと姉アリスの近親愛的な関係は、『恐るべき子供たち』の弟ポールと姉エリザベートのようでもある。
濃密な姉弟(してい)関係に、他の男女が巻き込まれていく姿には同様の趣きがある。そして、シャンソン歌手シャルル・トレネによる『Boum!』(ブン!)は、ノスタルジックな親密性の象徴として、トマの回想のなかで繰り返し用いられることになる。
その大切な姉アリスを、金持ちでいじめっ子のアルフレッドに奪われそうになり、姉を責め立てたことから悲劇が起き、トマはアリスを失うことになる。そして、この悲劇は長く尾を引くこととなり、大人になってから恋をした相手は、姉アリスの生き写しのようなエヴリーヌだった。さらに、そのエヴリーヌがアルフレッドの妻であることが分かり、トマの悲劇はますます深まっていく。
現在と過去とを往来するような、この一連の描写は、ハイデガーの言う「世界内存在」が、どのような姿をしているのかをよく表している。人は、恣意的な意識の連続性のなかにしか生きることはできない。僕たちが素朴に信じているようには、現実と妄想の境界は確かなものではない。
しかし、老年期のトマが、人生の報われなかった思いを鬱積(うっせき)させるように、少年期の心の支えだった探偵トトと共に、復讐へと向かうなかで見出したものは、彼の思いとはまったく異なる別の側面だった。
このラストシーンに描かれる、アルフレッドとの和解は、僕たちが僕たち自身の人生との和解が、どのようにして成立しうるのかを、見事に描き出しているように感じる。
物理的な時間の問題として、現実を変更するのは不可能ではあっても、心理的な時間のうちに、人は現実に起きたことの様相(ようそう)や、そこに宿る価値を変更することはできる。
トマが、最後に辿ることになった運命もまた、死をきっかけとしてしか、「本来性」に目覚めようがないとする、ハイデガーの存在論と高い親和性を持っている。
★ベルギー