レインウォッチャー

健康でさえあればのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

健康でさえあれば(1966年製作の映画)
3.5
4編から成る短編喜劇のオムニバス。間に配された劇場のような意匠も相俟って、P・エテックスのコントライブに訪れたような気分になれる。

まず各話はこんな感じ↓↓で、それぞれが15~20分くらいのドルチェサイズ、ヌン活感覚で嬉しいね。

①『不眠症』
寝室で妻の傍ら、吸血鬼小説にのめり込み過ぎちゃう男。

②『シネマトグラフ』
満員の映画館で不便していたら、商品広告の世界に入り込んじゃう男。

③『健康でさえあれば』
工事の騒音、交通渋滞、人ごみ、そしてストレス病…都市の生きづらさ。

④『もう森へなんか行かない』
森を舞台に、直接接触しない3組の行動が互いに干渉しあっておかしな方向へ。

と、四者四様の笑いとルック(カラーもあればモノクロ、セピアも)で愉しませてくれる。

ひとつ共通点を挙げるとすれば、《居心地の悪さ》だろうか。寝室でも、街へ出ても、娯楽の場である映画館でも、自然の中に遊んでさえ、安らげる場所がない。

②③④には、便利さを追求した結果かえってせまっ苦しくなった文明/物質主義社会に対する風刺の目線を強く感じることもできて、現代の異国で観ても苦味に喉をイガらせつつ笑えてしまう所以。半世紀以上続けて、わたしたちは日々自分で自分の不安の種を作り出してはぶうぶう不平を言っている。なんともヒマな動物だよnya.

興味深いのはエテックス自身が演じる人物の立ち位置で、話によって不具合を被る側だったり、冷めた傍観者的立場だったりする。あまつさえ①では、本を読みふけりつつ内容にびびり倒すのもエテックスなら、本の中の世界で吸血鬼となって客人を脅かすのも彼なのだ。

被害者であり、加害者にもなる。それが、彼の見ていた世界の構図ということなのかもしれない。
まあもし彼と道頓堀でお茶ができたとして、そんな下手な深読みを話したりしても、飄々としたステップで戎橋の向こうへ行ってしまうんだろうけれど。あれ?お会計、わたしかよ。

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ところで(①を観ていて思ったのだけれど)「時計のコチコチいう秒針の音をずっと聴き続けているとなんとなく音の強弱があったり間隔が伸び縮みしたりするような気になってくる」現象って何か名前がついてるんだろうか。それともわたしだけだろうか。