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あのこは貴族のumisodachiのレビュー・感想・評価

あのこは貴族(2021年製作の映画)
4.8


山内マリコの同名小説の映画化作品。素晴らしい。いろいろな呪縛から解き放ってくれる映画だった。

松濤で生まれ育った名家のお嬢様・華子は婚約者からフラれてしまった。家族がすすめるままにお見合いを繰り返し、やがて慶應幼稚舎あがりの弁護士・幸一郎とめぐりあう。猛勉強の末に富山から出てきて慶應に入学した美紀は、父親の失業したことで大学を辞めないといけなくなり、水商売の道に進んだ。今は客に紹介してもらったイベント会社で働いている。華子の親友・逸子は、パーティで出会ったカップルの男性が華子の婚約者だと気づいて……。

こうやってあらすじを書くと、ずいぶんと不穏だと思うだろう。女同士の諍いが、血みどろの嫉妬劇がはじまりそうだと。でも、そんなことは微塵たりとも起こらない。

たしかに、東京には(というか、どこの土地でも)厳然たる階層が存在する。違う階層の人間は基本的に出会うこともなければ、仲良くなることも稀だ。大学や会社で出会ったとしても、「あの人は自分とは違う」と線を引いて、踏み込まない人が大多数だろう。育ってきた環境が違いすぎる人と一緒にいるのは大変だから。

門脇麦が演じる華子は、家の考え方に反発するでもなく、「そんなもんだ」と思って暮らしている女性だ。ボンヤリして見えるかもしれないが、実はお受験組の私からしてみると、華子のキャラクターはかなりリアルだった。華子のような女の子は、例え10代から恋愛遍歴を重ねても、それなりにキャリアを積み上げても、結果的に「それなりの相手」と結婚していく。それは決して妥協ではない。生きるための最適解なのだ。運命の相手とやらが自分と全然違う育ちだったとしたら、抗おうと思うのかもしれない。でも着々と人生経験を積んでいれば、25歳も過ぎたころには「運命の相手なんていないんだな」と了解する人間は多いものだ。「結婚してもいいな」と思う相手が何人かいるとすれば、自分の家族や親戚と軋轢を生まなそうな相手を選んだ方がスムーズだし、それまでの生き方や価値観を変えずにいられる。

華子はわかりやすくブランド物を身に着けているわけでもなければ、「ごきげんよう」など妙な言葉遣いをするわけでもない。ごくごく普通。ただ、立ち居振る舞いが上品で、タクシーに乗り慣れていて、ほどよく素敵なスタイリングで、松濤に住んでいて、ホテルのラウンジで同席者が物を落としたらスッと手を挙げてスタッフを呼ぶことができる。小さいころから刷り込まれてきたお嬢様感は「本物」で、こういう子は仮にボロボロのスウェットを着ていたとしてもわかるものだ。この「本物感」が、とても現実的で唸った。

対して、水原希子が演じる美紀は、富山から東京に出てきた女の子。水原希子みたいなルックスの子がいたら話題になりそうなものだが、そこは目を瞑るとして……弾けるような生命力と、内側に貯めこんだエネルギーを発散できずにいる聡明な女の子。一回すべてを諦めた人間だけが持つ肝の座り方は、単純にかっこいい。

交わるはずがなかった華子と美紀の世界が1人の男性を介して交差するとき、普通の作品であれば衝突が起こるはずだ。しかし、本作でそんなことは起こらない。華子と美紀は、互いが違う世界に住むことを認識しながら正面から見つめ合い、相手の立場に理解を示すのだ。華子の親友・逸子は「社会は女を分断しようとする」と語るが、ことあるごとに「女×女」という構図を煽るこの世の中を、本作は静かにきっぱりと解体していく。

私はマッチョイムズの具現化みたいな会社に就職した。最初に同じ部署に配属された同期は私を含めて3人で、男1人に女2人だった。女が配属されることすら珍しい部署だったので、過半数が女だったことはちょっとした衝撃だったと思う。私はもう一人の同期の女の子と内定時代から仲が良かったものの、周囲によって私たちは「ライバル関係でいがみ合っている」というストーリーの出演者にさせられた。

私と彼女が立ち話をしていると、男性の先輩が「おいおい、お前ら喧嘩すんなよー」と大声でからかってくる。他の男の先輩は「あー、あっちが俺の隣の席なら良かったのになー、可愛いから」と容姿を比較して毎日のようにいじってきた。当時だってアホくさいと思っていたし、私たちは構わずにランチをしたりお茶したりして親交を深めていたけれど、これが仕立て上げられたストーリーだと知らない人は、信じちゃうんだよね。で、私と彼女が犬猿の仲だと思ってしまう。そんな誤解から気を遣われたり、周りからからかわれたりするのが続くと、気にしていないようでも心が削られていく。

数少ない女性の先輩だってそうだった。凄まじい男社会の中で頑張って生き抜いている彼女たちは、後輩の女性に適切な注意をするだけで「若さに嫉妬している」「いびっている」と囁かれた。仕事ができる女は「女を捨ててる」と言われるか「役員の愛人なんだ」と噂されるかで、私には「嫉妬深いのはお前らの方だろ」としか思えなかった。実際の彼女たちは、酒が飲めないのに潰される私を酔った振りして連れ出してくれたり、精神的に弱りかけた私をトイレで労わってくれたり、『あの子は貴族』でも出てきた都ホテルのラウンジで素敵な女子会をして私の気持ちを慰めてくれたり、妊娠して不安がる私を勇気づけてくれたりしたのに。

どんなときでも女と女を分断させようとする社会に対して、私は期待しなくなっていた。実際は大切なママ友だってできたし、今でも元職場の女性の先輩や同期や後輩と繋がっているし、女と女を表す言葉は「分断」なんかじゃなくて「連帯」だと私は知っているけれど、それは私たちだけが知っていればいいさと思っていた。でも、本作はそんな諦念をそっと抱きしめて、成仏させてくれた。女と女を繋ぐのは「分断」なんかじゃない。橋の向こう側から振られた手に華子が笑顔で振り返したように、例え生きる世界が違ったって私たちは微笑み合って生きていけるのだから。

この映画では、決定的なことは何も起こらない。デリカシーがない男性は出てくるし、幸一郎の欠点や彼ならではの苦しみも描かれるが、浮気現場を目撃したり、突然モラハラが発動したり、芝居がかった嫁いじめがあったり、誰かに華子が罵倒されたり、美紀が泣きわめいたり、そんなことは何ひとつ発生しない。でも、すべてがドラマチックでエモーショナルだ。彼女たちが身に着ける服のひとつひとつが、彼女たちが発する言葉のひとつひとつが、彼女たちが向ける視線のすべてが、「これは私の物語だ」と思わせる力を持っている。

明確なカタルシスは2回訪れる。まずは、先述した華子が橋の上で手を振るところ。華子の視界が開けて今まで見えなかったものが見えるようになり、自分自身の足で東京を、人生を歩こうと舵を切るきっかけになる重要なシーンだ。それまで語られてきたことが、あの瞬間に結実しているという見事な演出。あんなの泣いちゃうよ。

もう1回は、美紀が里英と自転車に乗るシーン。外部から来た自分たちを痛いほど認識しながら、東京で生きることを決めた彼女たちの清々しさよ。与えられたものが少ないのならば、自分たちでほしいものを手に入れればいいさ!と言うように笑顔で駆け抜ける姿が眩しすぎて、このシーンが永遠に続けばいいのにと願った。

そして、逸子を演じた石橋静河の尋常じゃない説得力。華子と同じ階層に生きていながらも、広い視野で世界を見詰めるバランス感覚。もはや賢者の風格だった。世界を正しく見据え、矛盾や間違いを修正できるのは、きっと彼女のような人間だろう。世界には自分と違う人々がたくさんいる。これから出会うすべての人々に対して、私は逸子のようでありたい。

幸一郎の「幼稚舎あがり感」も見事。非の打ちどころがない青年でありつつ、怖いくらい鈍感な面も持ち合わせている男。高良健吾のリアルすぎる芝居に驚嘆した。女が色々な価値観に縛られているように、彼も色々なものに縛られている。本作は幸一郎を決して糾弾しない。その代わり、これは彼の物語でもあったんだよ、と優しく囁いて終わっていく。なんという……邦画はまたひとつ新しい地平に到達したのではないだろうか。(ただ、結婚した後の新居が有明だか勝どきだかっていうのはどうなの?そこ選ぶかなあ……)

驚くほど緻密に構築された映画を、ぜひとも多くの人に観てほしい。きっとあなたを救ってくれるはずだから。










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