燦

人数の町の燦のネタバレレビュー・内容・結末

人数の町(2020年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

たくさんの住人が登場するにも関わらず、メインの登場人物以外にあまりピントを合わせず、構図のうえでも端の方に追いやられ無機質に映し出されているところに、個別性を捨象された人間たちが集う「人数の町」の雰囲気と気味悪さを感じた。

正直、蒼山と紅子が人数の町で出会ってから逃亡を図るまでの心情の変化を把握しにくかったし、突然の「愛してる」にも驚いた。

しかし、町のコンセプトの斬新さにすっかり引き込まれ、もしも自分が戸籍のない人間や前科のある人間であったら、あの町で暮らすことを選ぶだろうなと思った。人数の町のシステムは、町の外部に通常の社会が存在し、人数を必要とする場面があるから成立するもので、子どもをつくることは禁止されているため持続可能ではない。しかし、この世のひずみから現実的に成立させることも可能なように思え、ゾッとした。

「人数の町」とは人間として社会で生きる際の煩わしさをできる限り軽減し、三大欲求に従って動物的に生きることを可能にする場所である。芸術や文学といった人間的な文化がない。食事はあるが調理はなく、性交はあるが恋愛はない。だからこそ、蒼山の「愛してる」という言葉はあの町のなかでとても異質な響きを持っていた。また、人数の町の住人は、目の前にある生活において己の欲求を満たすことしか考えておらず、その生活を維持することで、世の中にどれだけの欺瞞が生み出されるかについて気がついていないし、むしろ関心がない。

その一方で、人数の町を私たちが暮らす都市とは類似性を持つ場所として描かれているように思う。パンフレットにはあの紙切れはSNSや出会い系に通ずるものとして、プールはハッテン場として説明されている。

動物的ではなく人間的であること、人間同士の煩わしいやりとりを避けないこと、それらの善悪の判断は社会の文脈に依存しているであろうしわたしのなかでも揺らぐ。けれども、生きていてよかったと思えるような喜びは、人間同士の煩わしいやりとりの先にあることが多いのもわたしにとってたしかだ。
燦