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アイダよ、何処へ?のkojikojiのレビュー・感想・評価

アイダよ、何処へ?(2020年製作の映画)
3.8
 ジャケ写は鉄条網の向こうから、アイダが睨みつけるようにこちらを見ている。何かを訴えかけるように。
あまりに酷い事件に言葉を失う。
あなたがこの事件を知るだけでも、この映画の価値がある。アイダはそう言っているようだ。

1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の中で起きた大量虐殺事件「スレブレニツァの虐殺」の全貌と、その中で家族を守ろうとした一人の女性の姿を描いく。
 「死ぬまでに観たい映画1001」にリストアップされている力作だ。

#1406 2023年 440本目
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
この時46歳の女性監督。
監督作品『サラエボの花』は、ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞を受賞している。





(ネタバレ注意ー何も考えず書いてます)

 スレブレニツァがセルビア人勢力によって占拠され、2万5000人の住人たちが保護を求めて国連基地に集まってくる。
 国連平和維持軍で通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は、セルビア勢力から逃げてきた人々の中にいる夫や息子たちを守るため、奮闘するが、国連はなんの力もなく、セルビア人勢力に民衆を引き渡してしまう。その中には、アイダの夫や息子たちもいた。

国連とはいかに非力な存在であることか。
この映画を観ると絶望的になる。
私達が学校で学んだ理想とはあまりにかけ離れた実態。わかってはいるつもりだったが、ここまで酷い状態とは知らなかった。
 虐殺そのものは映さないが、写っているのと変わらないリアリティがある。すでに男と女を分けてバスに乗せた時、もうこの人達はどこかで死を覚悟しているのがわかる。それだけに、体育館みたいな場所に並ばされた時は虐殺が始まることが予測されて、その緊迫感は半端ではない。

事件の後その建物をじっと写した映像が静かにフェイドアウトする。それが音がないだけに、監督の強烈な憤りと絶対に許せないという気持ちが強く主張されているように感じた。

 事件から後、遺体が掘り起こされる。遺体(すでに白骨化している。)が何体も並べれた部屋。遺体の横には服や靴、持ち物が並べられている。アイダが一つ一つ遺体を確認している。やがて彼女が泣き出す。靴を持ち上げ座り込んで泣き崩れる。
このシーンはリアルで、観ていて息苦しくなる。心を打つ。

 何故共存できないのだろう。
殺せば殺されることになるではないか。

 ラスト近く、主人公が自分の家を訪ねると見ず知らずの一家が住んでいる。この対面は、今起きていることがどう言うことになるのか知らしめる上手い演出と思う。
 この家はずっと空き家で、住人は亡くなったと聞いていたと言う。前の住人の荷物は1つのバックだけ。アイダがそのバッグを受け取る時緊張感がビーンと張り詰める。

 学校に復帰したアイダ。父兄を迎えてのお遊戯会が映される。アイダの顔は笑っているようで笑っていない。父兄の中に夫や子供達を連れて行った狂ったようなセルビア軍人のリーダーがにこやかに笑っている。



📝メモ
(この物語の背景
 ー映画を観る前に知っておきたい知識)

1991年に勃発したユーゴスラビア紛争に伴う解体の中、ボスニア・ヘルツェゴビアが独立を宣言。当時同国には430万人が住んでいた。そのうち44%がポシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人だった。
ボシュニャク人、クロアチア人は独立を推進、セルビア人は反対であったために内紛が勃発。1992年から1995年まで続いた。

 この物語は、その戦闘終結直前の1995年7月の起こった実話である。
ムラディッチ大将率いるセルビア人勢力が、国連指定の安全地帯であったスレプレニツァに侵攻したところから物語は始まる。
 
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、民族勢力の拡大を図ったもので、「陣取り合戦」の様相を呈していた。そのため支配地域から不安要素を取り除く目的で、民族浄化が行われていた。

 国連の敷地内に逃げ込もうとする民衆は、セルビア人に捕まれば殺されることを知っていたのだ。そのために必死で中に入ろうとするが、国連は内紛には関与しないという姿勢だったために、積極的な関わりをしない。
それが原因で、この物語の事件が発生してしまうのだ。
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