(音声ガイドと日本語字幕の付いた「オープン上映」のスタイルで観ました)
数えきれないほどの問題提起を内在した映画だった。
障害者が表現活動をするというのは、どういう意味を持つのか。
をテーマに映画は撮られていくのだが、そこには簡単には答えは出てこない。
そもそも表現に対する答えは、その人によって違うものだ。
健常者であれ、障害者であれ、それは変わらず、問いは結局「表現とは何か」ということに行き着く。
一方で、障害に関してもさまざまな問題が浮かび上がってくる。
監督の石田智哉は自身も障害者で、身体の自由があまり利かない。
だから、撮影の際にもいろいろな人の助けを借りないとならない。
では、そうやって作られた映画は、監督の作品と言えるのだろうか。
監督は悩み、スタッフも「どこまで自分を出していいのか」と同じ悩みを抱えてしまう。
一人でやる表現以外は、分業にならざるを得ないのだから、この問題は健常者でも同じだろう。
ただ、誰かの手を借りなければならない度合いが高い分、障害者の場合は余計にその思いは強くなってしまう。
「障害は個性だ」という言葉があちこちでもてはやされている。
いい言葉だとは思う。でも、それも簡単に言えることではないことがわかってくる。
映画の中では、ある演出家が「バレエを踊れる人と障害者と、どちらの動きにも僕は面白さを感じる」と語る。
その人は丁寧に言葉を選び、慎重に語っているが、それでも「面白さ」に引っ掛かる人はいるだろう。
その言葉に自信を抱く障害者もいるかもしれないが、逆に傷つく障害者もいるかもしれない。
「個性」と簡単に片づけてしまえることではないのだ。
ほかにも、障害者同士の壁という問題もある。
視覚障害者と聴覚障害者、つまり目の見えない人と音の聴こえない人はどうやり取りをすればいいのか。
仮になんとかできたとしても、無理くりやったやり取りで何かを通じあうことはできるのか。
そもそも、そんな障害者たちが、違う形の障害を抱えた人たちと出会わないという現実もある。
こんな風に映画は問題提起に溢れている。
監督は自らが感じた疑問を、映画制作を進めることで、考え、深掘りし、体験し、答えを探す。
どれも簡単な問題ではないので、当然ながら答えは出てこない。
それでも、問題として浮き彫りにされることで、映画に意味が生まれてくる。
そして観ているうちに、これが障害者に限った問題ではないことにも気づかされる。
度合いこそ違っても、これは突き詰めれば「表現」と「コミュニケーション」の話なのだ。
だとしたら、それは誰にだって当てはまることだと言えるだろう。
映画の間中、本当にいろんなことを考えさせられた気がする。
問いかけられ、残り続ける、そんな映画だと思う。