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アラヤのニューランドのレビュー・感想・評価

アラヤ(2020年製作の映画)
3.3
1日の内に、2人の中国新鋭女性監督の作品を観る。『平静』は、危うく儚く一般的にも話題作となることはないだろうが、こっちはどっしりと守旧的で、とろけるわけの分からないような泪ものに弱い日本人観客には、宣伝次第で結構イケる気もする。よくは知らないし観ることもないだろうが、今大ヒット映画『鬼滅の刃』も同じ路線かなとも。実際、これは大作路線時代の橋本忍脚本の邦画の名作といわれる『砂の器』に充分に匹敵·同列扱いできる作品だと思う。何かやはり訳の分からない、宿命·運命が10数年の時を跨いで、登場人物を襲う。大掛かりな回想シーンが、訳の分からなさを何となく飲み込んだ気にさせてくれる。まして、しつっこいだろう大団円の前にスパッと切ってくれるのだ。暗い中での動作でもとにかく、丁寧に延々と見せてゆく、回想でしつっこく繰り返す流れなのにだ。用意してた蔑みがスッと消えてしまう。その点では『砂の器』より上かも知れない。観てると鬱陶しいが、人物の配置の地理的スケールが骨格として染み込んでくる。
そしてこの監督は、『砂の器』の野村芳太郎より、演出の映画世界成就完成に向けた拘りを、執拗に骨太く貫き通してる。醒めるとバカみたいだが、映画を観てる間は安心して退行して浸ってればいいのだ。実際その演出への拘りは、’50年代仏米を代表する·ある種の完全主義者のクレマン、マンキウィッツに匹敵する程で、完全に映画世界の内に閉じられている。ブレヒト、ゴダール以前で、映画はそれでもいいのだ。(『平静』も殆んどFIXだが、本作は)運転乗車関係を除けば、全編完全に固定カットを貫き通してるのに、ダイナミズム·動感を常に与えてくれて、活動写真の手応えをくれるマジックの力は本格。何をしてるか分からない暗闇をまんま長く捉え尽くす腰の据えかた、窓や鏡の汚れ写り込み、柔らかい暖簾·力強い枝や草越しの図、松明や焚き火や火事の炎の揺めき、画面手前まで来たりそこから入ってゆく人物たち、望遠の懐ろと柔らかさの主調、音楽のクラシカルか奏で、俯瞰·縦·ロー·大L·CU·寄りとズレ·出入りを有効に使いこなし·90°やどんでんで正確に人の動きを押さえ美化し逃さぬ力、陽の光線の色調·染めかたや太陽そのもので自然の稜線や木々·枯草とのリンク·変容が、まるで静寂感から無縁で·のろめ停滞感併存を寧ろ好ましく感覚を深くダイナミックにしてくれる、旧くからの一般に捉えてる映画そのものを、心中にリバイバルしてこさせる。日本映画でいうと、’50年代終盤から’60年代序盤にかけてのある種の映画たち。血縁や家族を失う事故や巡合わせの悲惨と、関係を越えた他者の無償·本能的動きによる、その(全てには届かぬも)取戻しの無意識流れ。それとも、いまやこの種の物は中国産として端からバカにされるのか。
それにしてもこれは世界各国に比べ文化·表現への軽視·無理解の、日本、東京という国·自治体の問題だが、協賛の度合いが極限まで減っている。かつては、会場も広く、全作800円均一で、当日気安くフラッと入れた。タル·オリヴェイラ·成瀬·ブアマンらは流石に予約も、ナデリ·コーエン兄弟·イニャリトゥ·Gリッチーらは、予備知識なくたまたま空いた時間を埋めるつもりで入って見つけた本邦初登場の逸材だった、以前も書いたが。コーエン兄弟なんて暫く東京映画祭でだけ観れる存在で、その度の新趣向が楽しみだった。安倍前首相なんて凡庸レベルの映画監督志望でもあったらく、小泉も文化好きを広言していたが、内容はあまりミーハー。気鋭の映画人自体が政治の世界に参入していかないと事態は変わらない気もする。
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