Junichi

ドライブ・マイ・カーのJunichiのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5
I got no car and it's breaking my heart. But I've found a driver and that's a start.

The Beatles “Drive My Car”

【撮影】10+
【演出】10
【脚本】10+
【音楽】9
【思想】6

画面の構成(撮影)
音楽(無音)や演出
役者の台詞回し(演出なき語り)など
監督の入念な創り込みによる
芸術作品としての映画

3時間ある映画ですが
一コマも無駄がありません

村上春樹の小説『ドライブ・マイ・カー』を下敷に
S.ベケットの『ゴドーを待ちながら』
A.チェーホフの『ワーニャ伯父さん』
を劇中劇に複層構造として取り込み
創造的に物語を構築しなおします

原作小説よりも
妻の音のパートを増やし
みさきの物語に深みを与え
主人公である家福の再生に『ワーニャ伯父さん』に寄り添わせる
見事な脚本、脚色です

テーマは「喪失と再生」
村上春樹文学の一貫したテーマです

以下
本作で考えたことを箇条書きで
多少のネタバレ込みで



①『ゴドーを待ちながら』について
主人公家福が作中で最初に演じる作品
妻が亡くなるまでの主人公を象徴する作品

GodotはGod
神なき時代に
神を待つ(神に依存する)人間の不条理さ

物語が象徴しているのが
希求された再生(再び産まれること:母性)
家福にとってそれを象徴するのが
妻の音

家福が緑内障になるのは
見えているのに見ていない(見たくない)ことの暗示

妻の浮気だけでなく
そもそも妻の存在(とりわけ娘を亡くしてからの)を見ていない(見たくない)

妻を見ていながら見ていない
それは
見たい神(妻)しか見ないこと
神(妻)を理想化し
神(妻)に依存する(待つ)主人公

村上春樹文学に共通するのは
村上春樹的物語が好きな人物が主人公(男性)になり
村上春樹的物語が好きな人のことを嫌う女性が恋人や妻であること

主人公の男性は現実から決定的にズレ続け
恋人や妻から復讐される

そしてこの復讐が
主人公の再生のプロセスに組み込まれていく

救済されることのない救済物語を生きる不条理さ
このモチーフを際立たせるのが『ゴドーを待ちながら』



②『ワーニャ伯父さん』
本映画の本質を表現する作品
むしろ濱口監督は『ドライブ・マイ・カー』で
『ワーニャ伯父さん』をリクリエーションしたのだと思います

車中で何度も妻の声で反復される物語

ワーニャ伯父さんを演じたくない主人公と
妻の浮気相手にこの役を演じさせたい主人公
いわば主人公による復讐
しかしこの試みは失敗し
結局自分でワーニャ伯父さんを演じます

主人公の再生に必要なのは
復讐することではなく
手ひどく復讐されることだから

復讐される決意に必要なのが
みさきの物語
彼女との北海道までのロード
みさきに語る肯定的な言葉が
『ワーニャ伯父さん』のソーニャの言葉に重なります

そして『ワーニャ伯父さん』の本読みの場面
濱口監督のエッセンスがここに現れています

演出を排除する
感情を込めない
ただ淡々とゆっくり
大きな声で本読みをする

感情は言葉ではなく身体
言葉で(台詞で)感情ができるのではなく
感情が身体化したものが言葉

言葉と感情を分離させることで
身体から感情を惹起させる
ある意味で踊るように語る

マルチリンガルの演劇もその試みだと思います
そのクライマックスが
韓国語の手話

手話は基本的に無音です
対話者は手話の発話者の身体の動きを受け取ります

手話は意味を伝達するものではなく
出来事としての言葉
現在進行形で
出来事を生じさせます
そしてここにこそ感情が湧き上がります

手話によって語られるソーニャの最後の台詞
これこそ
ワーニャ伯父さん(家福)の再生であり
この映画の本質的なメッセージ
濱口監督から村上春樹への返礼

最後に流れる韓国の場面
おそらく家福は
サーブ900ターボをみさきに譲ったのだと思います
なぜなら家福にとってこの車は
母性(子宮)の象徴だから
(妻が主人公の車を嫌う理由もこれです)

そして
サーブ900ターボにみさきと同乗している犬(韓国人夫妻の飼い犬)
みさきの再生を予感させる
新たな家族の象徴

綿密に隙間なくロジカルに作り込まれている作品です
そもそも語り尽くすことは不可能で
長くなるのもあれなのでこの辺で

芸術創作が好きな人にオススメします
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