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ドライブ・マイ・カーのmizukiのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.8
なんて色っぽく美しい脚本なんでしょうか…。
そして、外国語を言語ではなく音として聴くあの感覚を映像化・言語化しているのも本当にすごい。そこが世界に評価されたのではないかと思う。日本人じゃないと伝わらないのでは…?という部分があり、むしろそのような場面の方が多いようにも感じた(音さんの脚本のように)。人に伝えるには、言葉が多すぎるか、少なすぎる。わからないほうが深読みできてかえってミステリアスで良いということも往々にしてある。それとも、言葉を超えて伝わるのだろうか。
日本人同士でも、自分の言葉が伝わらなかった経験は山ほどある。同じ日本語を使っているはずなのに、生きる環境が違うと用法が全く異なってくる。真逆の言葉で同じ概念を表すことだってあるくらいだ。例えば、「生きたい」と「死にたい」のように。どちらも、未来に期待して、命を燃やしているときに出てくる。「生きたい」が痛々しく感じたり、「死にたい」に「あっけなく死んでやらない、どうせ死ぬなら名誉の死を遂げたい」という意志を感じたり。どちらが悲観的か楽観的かさえわからないくらい似ている。

言葉では伝わらないこと、言葉にするから共有できること、言葉にしない気持ち、言葉にしない気持ちを汲んであえて知らないふりをすること、理解を期待しなかった相手との邂逅。いいな、「分かち難さ」と「邂逅」をこんな風に書けるのって。私も書いてみたい。いや、書き始めてはいるけど書き終われない…。生きているうちに、それなりに納得できるものが書けるのかな。誰に見せるわけでもないけど。地道にコツコツ、色んな人の話を聴いてそれぞれの思いに触れたり、美しいものをちゃんと自分の目で見たり、ちゃんと喜んだり、傷ついたときはちゃんと悲しんだり、こまめにインプットとアウトプットを繰り返していくしかないんだろうなあ。
もちろんあれは、音さんが悲しみや絶望と生涯付き合う上でできあがった、とても自然な、ポジティブな、明るい出力方法なのはわかる。一つ、へ〜って思ったのは、他人のフィルターを通らないと活字、そして本にならないということだ。だからこそ、ある朝、音さんが夫に「昨日の話覚えてる?」と聞いた時、本当は覚えていたのに彼は「いや、あまり覚えていないなあ。」と答えたシーンが、音さん目線だと少し冷たく感じた。「覚えていない」と答えたのは、「これ以上彼女に踏み込まない方がいいな」という彼の優しさだったはずだし、彼女もそれはわかっているだろう。しかし自分の出力方法がそれしかないならば、他の男の人のフィルターも通してみたいと思うのは、とても自然だと思う。

渡利と家福さんは、何も言わなくても何かが通じ合い、たくさん言葉を交わした後も、相手に失望したり期待しすぎることなく、変わらず通じ合う関係がとても美しい。罪の(意識の)共有って、人をものすごく近づける。長く続くような関係ではないと思うけど、お互いに死ぬまで一生忘れない関係だろうな。
渡利は、AIみたいに感情がなく干渉することもない、迷惑をかけない、空気みたいな存在なのに、実はものすごく感情的な人間で、意外と思ったことは後先考えずにその場で言うし、目の前に傷んだ人がいたら咄嗟に抱きしめてあげられる人なんだ…そして、咄嗟の感情を無駄にしないのは本人の完全な無意識ではなく意志によるものなんだと思うと、最も好きな登場人物だった。

二人羽織みたいに後ろから手を回して手話をするところが好き。
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