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『Imagine Robinson Crusoe(英題)』に投稿された感想・評価

3.5
現実と孤独との逃避。

無人島に漂着したひとりの男。
あるのは海とハトと漂着物だけ。
ある日彼はそこに存在しないはずの男女を見いだす。リアルな質感をもって立ち現れるそれは現か幻か…。

デフォーのロビンソンを下敷きに、極限状態で見る幻覚、憔悴。日を追うごとに追い詰められて、情緒が深夜テンション化する様が楽しい。
飛行機見つけて、家を燃やしてまでアピールしたのに全然ダメだったシーンは切なすぎる。

主人公の幻覚を交えて物語が進行するので、内容は荒唐無稽であまりに自由。まさにタイトル通りで憎らしい。

無人島の映画も新鮮で良き。
干したタコにハエがたかってるとこ大好き。
てかタコしか取れんのかいここの海。
映像という漂流、想像のロビンソン、あるいは鏡像として映る私たち。

ダニエル・デフォー作『ロビンソン・クルーソー』を原型に、ポレの自由な翻案によって再構築された本作。
『Tu imagines Robinson(あなたはロビンソンを想像する)』というタイトルが示すように、本作の中心にあるのは、観客自身が「ロビンソン」をどう想像するかという問いであり、ポレは本作にて、我々が「ロビンソン」と聞いて即座に思い浮かべる物語、すなわち西洋的自律の神話や植民地主義的な寓意を静かに問い直し、解体していくのである。
本作に登場する「ロビンソン」は、我々が想像する古典的な「西洋人のロビンソン」ではなく、むしろ歴史の暴力によって漂流を余儀なくされた「現代のロビンソン」 なのだ。
ここで展開されるのは、単なる漂流譚や孤島でのサバイバル生活ではなく、本質的には、現代における人間の存在そのものが引き裂かれていることや、社会全体の合理主義化に伴う人間関係の希薄化、コミュニケーションの喪失、そして漂流した男を社会からの孤立化が進んだ現代人と重ねることで、現代人の内面的な真の「孤独」に迫っている。

ポレ映画においては常として、本作も従来の映画的ナラティブ構造を意図的に放棄している。
物語は名目上、無人島に流れ着いた男を中心に進行するが、通常の観客がそこで期待するような「脱出」や「成長」といったドラマは存在しない。むしろ、時間の流れは宙吊りにされ、空間の感覚は断片化される。
故に本作は、観客に対して一切の迎合を見せない。その難解さ、構成の不明瞭さ、詩的言語の多用といった要素は、ある者には不親切に映るだろう。しかし、これこそ、ポレが時間と空間を物語の従属物としてではなく、独立した詩的イメージの連なりとして提示していることの象徴である。
画面には、男が浅瀬の水面に身体を漂わせ、海辺をさまよい、あるいは意味のない作業を延々と続ける様が映し出される。視線はあくまで観察的でありながらも、時に男の眼差しが幻のように現れる女や他者を捉える瞬間には、内的な震えが映像に滲み出る。
この幻との視線の交錯、極限まで突き詰められた孤独、成立しえない対話の気配こそが、ポレの描こうとする「現代のロビンソン像」の本質なのだ。

本作を構築するもうひとつの核は、映像そのものの「詩性」である。
従来の映画文法からの脱却、映像に宿る詩性と孤独性、詩的ナレーションが混ざり合う構造は、言うまでもなくポレ映画の真髄だが、本作における詩的ナレーションは幾度となく画面を横切り、意味を断定するのではなく思考の余白を作り出す。
言葉は、映像の深淵にある不安や希求を呼び起こし、観客の思考を映像の表層から深淵へと導いていく。ここには明確なメッセージ性も、教訓も存在しない。ただ、感じ、考えることを要請する映像の詩的空間が広がるばかりである。
映像の「質感」にも注目したい。
本作のキャメラは、岩の肌理、水の流れ、肉体の湿り気といった、自然と人間の境界線にある「触覚的映像」にフォーカスする。それは見ることの体験が、触れること、ひいては存在することへと転化していく瞬間であり、ポレが映像をもって哲学的探究を試みていることの証明でもある。
加えて、主演のトビアス・エンゲルは撮影中に約4日間に及ぶ断食を行い、身体的極限状態で撮影に臨んだという。彼の身体の線や動作のひとつひとつには、演技を超えた生の躍動が見て取れ、まさに身体そのものでリアリズムを体現している。

さらに注目すべきは、本作がフランスにおける政治的激動の真っ只中である1968年に発表されたという、政治的文脈との関係性だ。
フランスでは五月革命が起こり、体制や権威への根源的な問い直しが街頭を覆ったこの年、映画世界でもヌーヴェルヴァーグが自己更新を迫られつつあった。
多くの芸術家が既存の秩序や形式に対する反抗を試みていたが、ポレの本作もまた、従来の映画構造から脱却することで、社会的・政治的次元においても「孤立」や「断絶」を主題化している。
文明に背を向けた「ロビンソン」の姿は、同時代における人間疎外や制度的暴力に対するアイロニーとしても読めるだろう。だが、ポレは決して声高に訴えることはせず、むしろ沈黙と断絶の中にこそ、真の詩情と批評の力を見出しているのである。

本作は、そうした激動と解体の中で生まれた、荒涼とした映像の漂流地図である。
そこには出口はない。しかし、出口がないことこそが出口であり、漂流そのものが問いであり、答えなのである。
ポレの映像詩において、私たちは物語という港を失い、言葉という羅針盤を失い、スクリーンの光と影のうねりに漂い続ける。だが、その漂流は決して絶望ではない。むしろ、その果てしなさこそが、映画が映画として立ち戻るための唯一の方法なのかもしれない。
「ロビンソン」という孤島に取り残された人間の比喩は、今や観客自身の内面で響く。物語を失いながらもなお想像し続ける存在としての「ロビンソン」。
本作に登場する男=「ロビンソン」とは、想像することを放棄できない私たち自身の鏡像なのである。ポレは、それを嘲笑することも賛美することもなく、ただ映し出す。
映像の海原の只中で、私たちは孤立し、そして同時に、映画という漂流を通じて自分自身を見つめ直すのだ。

本作は単なる『ロビンソン・クルーソー』の現代的翻案ではなく、我々がスクリーンの向こう岸に「ロビンソン」を想像することでもない。
それはむしろ、「ロビンソン」という象徴的存在を媒体にしながら、私たちの中にある「存在の孤独」へ問いかける行為であり、文明と自己の断絶、近代的自我の孤立、言語の不在、そしてそれでもなお語ろうとする意志をめぐる漂流なのだ。
88分という短くも濃密な時間の中に、映画というメディアの可能性と限界、そして超越を体現した本作は、まさに観る者に長く残る沈黙の詩である。


ちなみに、ポレは本作を“無人島に持っていく唯一の映画”と自ら評価している。