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劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトのsemiのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

映画記録アプリを移行したのでこちらにも記録

以下は伏せったーに書いてた長すぎる感想を少し修正したもの
折角なので一緒に格納


見てる間は何が起こってるかよくわからないまま轟速で場面が転換していくので「キリン!!お前だけ納得してるんじゃない!!」と思いながら見ていたはずなのに、家に帰ってきてから1人で思い返すと腑に落ちるところの多い不思議な映画だった(腑に落ちたと思い込んでるだけだとは思うけど)。
よかった。あとめちゃくちゃ泣いた。
わけのわからない情熱を浴びると泣いてしまう。
わがままハイウェイがめちゃくちゃ好みだった……
花柳香子さんのお声がバチ好み。レヴュー直前の「うっといねん」の一連のシーン+怨みのレヴュー見ながら「????(三年目の浮気が流れてくるのか??)」みたいな雰囲気になった記憶。
ワイドスクリーンバロック、単語を調べても「構成とかも好き放題やります!!!!」って意味のジャンルなんか?という解釈しかできなかったけど、劇場版スタァライトは割とリアルタイムでの構成はめきょめきょしてたように感じた。帰宅してから思い返すと妙にわかりやすく感じるから「構成がうまい…」と思いました(読書感想文?)。
なんかもう……すごかった……初手皆殺しのレヴューで「あぁ!?!?!?」になったし「あ……………………………」にもなった。言葉にできない
大場ななさんはすごい。まひるちゃんがひかりちゃんに詰め寄る競演のレヴューも超怖くて最高だった。
「列車は必ず次の駅へ。なら、舞台は? 私たちは?」という問い、めちゃくちゃ怖い。
列車は目的地に着いてもすぐに次の目的地へ向かう。私たちが何かを成したとして、その次は?という問いかけって捉えたので……。その問いかけを投げてくるのが大場ななさんなのも………皆殺しのレヴューのラストで問いかけてくるのも……………。
なんかこう……
あとは卒業だね、劇団に受かったり、大学で学びたいことを学んだりできるといいね、って期間って、目的が「受かる」ことになりがちで、でも別に大学とかに受かること自体が人生の目的地になるわけなくて(なぜなら入学後にも人生は続くし、なんなら卒業後の方が長い間であるので)、卒業を控えた高3って見方によっては「強制的に訪れる卒業という変化に向けて、ゆるやかに停滞していく時期」とも捉えられることができる。多分……。なら、舞台少女としての歩みを止めてることに変わりがないのでは?と思ってしまう。かれんちゃんは「進化し続ける」と言っていたことや、ひかりちゃんからの「私たちはもう、舞台の上」というメッセージを受け取っていたこと、1人だけ進路希望が空白(着地点が不明→止まる駅が決まっていないから走り続けるしかない)だったことから、かれんちゃんは皆殺しのレヴューに参加しなかったのかなと思ってる……。
個人的に、もしかして皆殺しのレヴューに参加しない世界線もあったかも?と考えてるキャラに真矢さんがいて、なぜなら彼女だけが大場ななの「なら、舞台は?私たちは?」という問いかけに答えられていたから。彼女は生粋の舞台人なのかな〜って思ってる。でも彼女もゆるやかに停滞していく派閥に入ってたから(進路希望で新国立って書いてたし)レヴューの舞台に立たされた…?なんもわからん。なんも自信ない。
でも大場ななさんがじゅんなちゃんにキレたのは超わかる。「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」ってセリフ、明らかにポエティックで戯曲か何かの引用だろうし(調べたらシェイクスピアのヘンリー四世らしいけど真偽は分からない)、そんな『舞台の上』用の言葉に対して「未成年だよ?」って『舞台の外』の言葉返されたらそりゃ「お前舞台勝手に降りたんか??」みたいな気持ちになるし、シェイクスピアからの引用が確かなら、じゅんなちゃんに絶対続きのセリフを答えて欲しかっただろうな……って…………………。
じゅんなちゃんが『舞台の外』のセリフで返してしまったように、皆殺しのレヴュー時点での彼女らは多分もう『舞台少女』としての死を迎えていたんだと思ってる。
で、大場ななさんが1度全てを壊すことで、彼女たちはまた『舞台少女』としての生を走り出すんじゃないかなって…クロディーヌさんが真矢さんとのレヴューで自決→蘇生をしたように……。皆殺しのレヴューで1度リセットを試みるのが、変化を恐れて再演を繰り返してきた大場ななさんなのがすごい。
大場ななさんは進路希望で「舞台を作る立場と舞台に立つ立場」の両方を検討してたから、それも鑑みるとスクラップアンドビルドを試みる立ち位置としての彼女がすごくハマり役に思える。
かれんちゃんは皆殺しのレヴューを経験しなかったけど、ひかりちゃんと対峙した時に発した「私には、何も……」的な言葉の後に『舞台少女』としての死を迎えていたはず。かれんちゃんは「ひかりちゃんと2人でスタァライトする」ことが舞台に立つ目的だったからこそ頑張ってきた。だから劇場版でいっぱい幼少期の描写したのかなって。人生のほとんどをつぎ込んできた『舞台に立つ目的』をアニメ本編でほぼほぼ達成してしまった今、かれんちゃんは舞台に立つ目的どころかアイデンティティも何もかもを失ったように感じてしまったのかなと思った。
アタシ再生産は『自我を確立する』ことだと勝手に解釈した。自我を確立して、自分の意思で、自分のために戦う。
強い自我が無いと出来ないことだと思う。だから勝負服も1人1人違うんだろうし。
最後のセリフの直前、ひかりちゃんの呼び掛けもあってかれんちゃんはアタシ再生産!ってするんだけど、この場合は『空虚な自己に気づいた時、自分の人生を振り返って、その中に己のアイデンティティを見つけて新しく自我を確立する』ことなのかなって……。自分が何者でもなくても、何も無いと思っても、自分は自分が生きた時間だけ生きてきたことは確かで、その時間はどれだけ虚無的だろうと、思考や呼吸をしている限り虚無になりようが無いから。
それでいて、舞台に立つ目的を失っていたかれんちゃんが「ひかりちゃんに負けたくない」という新しい目的を見つけて『舞台少女』として生まれなおり、『舞台少女は次の舞台へ』という未来を提示することで大場ななさんの「なら、舞台は?私たちは?」という問への解を出して終幕なのかな……
感想終わり

視覚・聴覚から情報を漫然と受け取っていたら終わるのではなく、思考しながら見続けることができるいい映画体験だったと記憶している。
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