まぬままおま

愛のコリーダ 修復版のまぬままおまのレビュー・感想・評価

愛のコリーダ 修復版(1976年製作の映画)
5.0
大島渚監督。阿部定事件がもとになっている。
最大の問題作と言われてますが、間違いなく名作です。

「リビドーは、加害に昇華される。」
より作品に沿って正確に言えば、
「性愛といったリビドーは、殺人や性器の所有といった攻撃性や支配性に昇華される。」

あらすじを公式サイト(https://oshima2021.com/)から引用する。

昭和11年。東京・中野の料亭「吉田屋」を舞台に、そこの主人である吉蔵と仲居の阿部定が出逢いたちまち惹かれあう。昼夜を問わず体を求めあう二人の愛はエスカレートし、やがてお互いの首を絞めて快感を味わうなど、危険な性戯におぼれていく。定は吉蔵の愛を独占したいと願うようになり、ある日、吉蔵を殺して自分だけのものにしようと包丁を手にした。

性愛の「愛する人を自分のモノにしたい」欲望とその挫折を見事に芸術作品として表現していると観た。
そして自分のモノにすること、言い換えれば「他者の所有」は挫折するのである。
この挫折の要因は、「他者の所有」が殺人と性器の所有という犯罪行為になり、社会的に承認されないからだけではない。むしろもっと根源的である。

所有とは〈モノ〉を把持することである。
定は喜蔵という他者の所有を実現しようとする。そのために昼夜を問わずセックスをする。だがそれだけでは実現はせず、生死を彷徨う首絞めセックスへと過激化する。最後には喜蔵を殺し、性器を切り取り所有するのである。ここで他者の所有は実現したと思われる。
しかし喜蔵は死によって、他者から〈モノ〉へ転化する。性器は喜蔵の象徴かもしれない。だが切り取られた性器はどこまでいっても〈モノ〉である。そこには他者はいない。あるのは〈モノ〉である。

つまり他者を所有する行為は、必然的に他者をモノ化する行為となり、モノの所有しか実現されないのである。
他者は把持不能である。どうしても〈私〉の手からすり抜けてしまうのである。

リビドーは、セックスなどでオーガズムに達することで実現する(とみせかけられる)。ただしリビドーは増長する。アブノーマルな性愛へと向かっていく。そして究極的に性愛は殺人行為に代表される攻撃や支配、他者の所有に昇華されるのかもしれない。しかし他者の所有は根本的に挫折する。実現不可能なのである。
それならばなぜ私たちは性愛に励むのだろうか。

蛇足1
ちゃんと挿入したり、舐めたり、触っててびっくりした。あとほぼセックスシーン。
裁判に発展するのがよくわかる。

蛇足2
この作品は、AVやピンク映画ではなく芸術作品としての映画として観た。
AVやピンク映画は性欲の発散。性欲の発散だけでなく、問いかけてくるようなテーマ性を持ち合わせているかどうかが芸術作品としての映画かどうかを切り分けるのかなと自分では解釈した。
ピンク映画は全くみないので凄い雑な解釈ではあるが。

蛇足3
この作品を解釈する上で、レヴィナスの思想が手掛かりになると思うし、他者や所有の考え方はかなり影響を受けている。