レインウォッチャー

パーフェクト・ケアのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

パーフェクト・ケア(2020年製作の映画)
3.0
ゴーン(したままでいてほしかった)ガール。

老人を「金のなる木」として次々と食い物にする悪徳法定後見人・マーラをロザムンド・パイクが演じる。

この設定自体がまず斬新だし、彼女だけではなく周囲のステークホルダー(医者、施設、警察etc)も共謀して、ひとつのシステム…というかもはや生態系・経済圏に近いものを形成している様子が恐怖だ。人の尊厳をも数の海へ投げ込まれ、希釈と繰り返しによって各々の罪悪感が損なわれていることが伝わり、ターゲットとして囲い込まれた時点で「詰み」な感が説得力をもって迫ってくるのだ。
恐ろしさと同時に、序盤のあくまでマーラの視点を中心にした洒脱な語り口は、未知の「お仕事系」クライムドラマが始まる期待・ワクワクを煽るのも事実。

…だったのだけれど、そこは思ったよりも広げられずに、中盤からごくごくフツーのリベンジ・アクション・サスペンスに舵が切られる。そうこうしているうちに時間は過ぎ、あれよあれよとチーズバーガー的軟着陸に終わってしまった。あれ?

やはりマーラの人物設計=キャラ芸が一番の肝だったので、彼女の世界をもっと深く広く見せてほしかったのが正直なところ。

端端のセリフから、強い男性嫌悪をもった人物であることが示されていて(「女に負けて悔しい?(←誰もそんなこと言ってない)」「男は脅すしか能がない」)、レズビアンという性志向もそこがベースになっているのかな、と匂わせる。
また実母に対するスタンス(「あんな毒親」)から、過去に義父等からの性的虐待被害やネグレクトなどの経験があって、いまの人格に繋がっているのかも。

よって冷酷なサイコパスというよりは、意地に近いものを強い原動力として内面に隠した「ファイター」としての印象の方が強まっていくように描かれている。きっと彼女の奥には子供部屋に置いてけぼりにされて一人泣いている小さな女の子がいるのでは、なんてことを想起させる。

こういう「ヴィランにも背景あり」なデザインは流行りでありながら、功罪ともにあるだろう。エピソードゼロみたいなものがあったら面白そうと思いつつ、このまま余白にしておくのが最善という気もする。

そんな彼女のキャラクターを反映してなのか、映像はクールで淡い寒色に統制されている。まさに映画全体が、ホームや病院といったヘルスケア系施設のもつ一種の無機質さ、冷徹さを纏っているようだ。
光の表現がおもしろくて、度々ちらつくゴースト(虹のような輪っか)が印象的。ドリーミーな肌触りがうまれ、現実感を少し奪っていく。

音楽もまたそのカラーに準じているようで、いわゆる劇伴らしいエモーションを特定するようなスコアではなく、浮遊感のあるシンセ中心のエレクトロミュージックが流れる。2019年のNetflix映画「アンカット・ダイヤモンド」(アダム・サンドラー主演)も類似のアプローチをとっていて、そういえばあれも常識逸脱マンの映画だったなあと思い出す。

そんなBGMが時折ハウスミュージック的な加速を見せ、観ている側もドライヴする場面がある。そのひとつが手際良く老人の家財を売り捌いていくシーンで、「どこを盛り上げとんねん」と笑ってしまうと同時に、あまりの流れ作業っぷりが確かに痛快だった。

この、マーラの所業にどこか爽快感すら感じてしまうのは、わたしたちにもまた高齢化社会の重圧があるからかもしれない。老人に政治も経済も引っ張られるループ社会に対する諦観、何年引きずっているのだろう。

終盤の展開は、暴力や悪虐の棘もひとたび巨大なシステムになってしまえば丸められ、遠くからは見えなくなってしまうことを提示している。それはやがて「サービス」として受け入れられ、場合によってはそのうち「文化」とも呼ばれるようになるかもしれない。
しかしそれを許しているのはわたしたち自身の選択なのだ。姥捨山の風習をいったい誰が笑えるというのか?

「これをアメリカンドリームと言わずして何という?」
 
——

既存楽曲の引用は少ない映画だったけれど、ラストに満を辞してかかるDJ Shadow「Blood on the Motorway」はまさかの切り口、シブいぜ。