オリジナル名刺を作っているやつや人脈を連呼するやつ、とりあえず横文字で言うやつなど、僕たちが馬鹿にする意識高い“風”なやつらが集まる冒頭。
そこから抜け出し2人の道を歩む北村匠海演じる〈僕〉と黒島結菜演じる〈彼女〉。
しかし2人だって例外ではない。
北村匠海は大手出版社で企画部に入ってイノベーションを起こしたいと夢を語るし、黒島結菜もアパレル企業のデザイン部で活躍したいと思っている。
井上祐貴演じる、〈僕〉の同僚の尚人も大きな夢を持つ。
尚人と〈僕〉は居酒屋でイノベーション会議なるものを開き、2人で将来のビジョンを語り合う。
では主人公である彼らと勝ち組飲み会の学生たちとの違いはなんなのか。
そんなものは簡単で、主人公か否かである。
〈僕〉や〈彼女〉、尚人だって物語の外にいる人たちから見れば何者でもない。
夢を語っているうちは誰だって“何者”かである。けれど現実を知り飲み込まれた時点で自分が消えてしまうのではないかという感覚。
それがあの演劇であり、〈僕〉が感じる非日常への高揚感の正体である。
今作のある仕掛けに対し、はじめはただのギミックにしかなっていないのではないかと思ったがそうではなかった。
若者たちの現実への不安と逃避はそのまま〈僕〉と〈彼女〉の関係として投影される。
居酒屋で意気込みを語っているときは何者にだってなれるしどこだっていける。現実に邪魔されない人生のマジックアワーである。
しかしそこにハッピーエンドはないと誰だって知っている。マジックアワーはいつか終わりを迎え、現実と向き合わなければ行けない時が来る。
楽しかった夜が明けると日常という現実が待っている。そこに“楽”はない。
僕たちはそれを受け入れ、それでも前に進むしかないのだ。いつまでもマジックアワーの中にいる人になるのか、それともマジックアワーの先に行くのか。
チューニングが物語の時代当時になったり、2021年の“今”になったりする一貫のなさは気になったが、おそらくこれは原作者のカツセマサヒコと監督の松本花奈の年齢差によるもので、それも映画に不思議な魔法をかけている部分はあるので一概に駄目ともいえないところである。