そーた

ノーカントリーのそーたのレビュー・感想・評価

ノーカントリー(2007年製作の映画)
4.0
オカッパ頭

小津安次郎の東京物語。
裏解釈がどこかのサイトに載っていて面白いななんて思いました。

僕もあんな解釈してみたいけれど、
ああいう象徴的な映画の寓意性を読み解くのって日本人にはちょっと難しいものです。
僕もすごく苦手。

全ての映画がそうとは言えないんだけれど、評価されている映画って何だか二面性があるような気がしてなりません。

この映画もそんな映画。
普通に見ていても楽しめるんだけれど、そうすると最後はあれれ?となってしまう。

よし今宵は、ビール片手に無い頭でじっくり向き合ってみるとしましょう。
何か面白い帰結に辿り着けたら良いのですが。

偶然大金を手にした男。
それを追う殺し屋。
一連の事件を捜査する保安官。

圧倒的な緊張感の中、この3人のストーリーが絡み合って一気に結末へと収束していきます。

寡黙な雰囲気のジョシュ・ブローリンに、抜群な円熟味のトミー・リー・ジョーンズ。

そして何よりも圧倒的に不条理な殺し屋を演じたハビエル・バルデム。

007スカイフォールでの悪役も強烈だったけれど、こちらはこちらでまた格別な魅力を放っていました。

この映画のキーマン。
まさにこの悪役アントン・シガーだと言えます。

彼の不条理さや理不尽さ。
僕は「運命」という言葉をそこにあてがってみようと思いました。

人の生死って時に運命的です。
もしも人の生殺与奪権をあの冷徹な殺し屋が握っているのだとすれば、彼は正に「運命」と呼ぶに相応しい。

そんな「運命」に対して、大金を手にしたルウェリンはあえて挑んでいくわけです。

彼が冒頭で「馬鹿なことをしに行く」と言って妻のカーラの元を離れるシーンがあります。

このシーン、何とも男性的だなって感じました。
だって、男って無意味なことが好きなんですもん。

それを女性であるカーラは理解できません。
でも、それをすぐに受け入れるところに僕は女性らしさを感じてしまいました。

ここでルウェリンを男性、カーラを女性と、それぞれを象徴として捉えてみます。
すると、この映画では男と女がそれぞれ「運命」にどう対峙していくか、その態度が対比されていて面白い。

男は抗う。
女は受け入れる。

終盤でのカーラの態度は正に「運命」の受容を表しているかのようでした。

じゃあ、保安官のベルって一体何なんでしょうか。

彼もかつては男として運命に抗おうと足掻いた若き時代があったはずです。

でも時代は徐々に変わってしまった。
「運命」がもたらす不条理さにもはや着いていけなくなっている。
冒頭でそれを吐露してますね。
年を感じ、昔と今を比較してしまうそんなスタンスを「運命」はもはや見放している。

彼にはもう時の経過とともに訪れる死を待つのみ。
彼の知らないうちに「運命」と対峙する者達の世代交代が起きていたんです。

『No contry for old men』というタイトルに込めれた意図とはこういうことなんじゃないでしょうか。

じゃあ、そもそもこの世界って「運命」が全てを支配しているのか。

いや、それは違うとこの映画は帰結します。

終盤にシガーが車を運転するシーン。
衝撃の展開過ぎて心臓が止まるかと思いました。

あのシーンでの信号の色が示すもの。

「運命」をも支配する存在。
運や偶発生に確率。

それが何だかは、はっきりと分かりませんが、所詮「運命」とは人間が命名した概念に過ぎません。
概念や観念など何もないカオスな領域に僕らが生身で生きているという事実。

その領域から見れば、僕ら全員、もはや「old men」です。

「運命」やなんやかんやで話が済むのならば、その方がまだ可愛げがあります。

もしかすると、シガーのオカッパ頭にはそんな可愛げが込められているのかもしれない。

今までの考察が台無しになるこんな結論。
実はシガーのオカッパ頭が気になってしょうがなかった122分。

あのオカッパって不条理さに対する人間がとったせめてもの逆襲なのかもしれない。

だとすればこの映画ってなんてお茶目なんだろう。
コーエン兄弟ならやりかねないから恐ろしい。

な~んてもの凄い結論でもって今宵のひとり映画談義を締め括らせて頂きます。
それでは、さようなら。
そーた

そーた