「青春は危ういがその危うさも神の恵み」って実感するバイクのシーンはわたしも顔に風を感じたよ。そうだよそのまま海にでも行っちゃえばよかったのに。そうできるタイプじゃないからこうなっちゃうんだけど。
信仰の試練とか人間のささくれた弱さを緻密に描きつつ、一方で司祭がもっと外交的で舐められない人だったらたぶん違ったよねという身も蓋もない部分もあった。
過度に内省的な人間の自戒を込めていうんだけど、自分や神との対話に重きを置き「すぎる」と緩やかに下流に運ばれていくばかりにならない?森羅万象にするのとおなじくらい外部にも声を出して対話を試みないと他者はリアルな輪郭を持ち得ないし、すべての他者は異文化だから「どうして」とか「こうだろう」とかいう自問という名の妄想が有益なことってあんまりない気がする。きちんと問わないと返ってこない。