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祈り 幻に長崎を想う刻(とき)のtakのレビュー・感想・評価

3.5
長崎原爆で倒壊した浦上天主堂遺構保存をめぐる人々の思いを描いた舞台「マリアの首」の映画化。僕が映画館に足を運んだ時期には、九州では長崎と北九州でしか上映されていなかった。映画冒頭でも紹介されるように、小倉と八幡も原爆投下候補地だったんだもの。長崎に原爆が落とされた日は、戦争や核廃絶についていろんな気持ちがよぎる。

もともとは舞台用の戯曲なので、闇市のセットやクライマックスのマリア像を運び出す場面の演出は、かなり舞台寄りになっている。具体的に被害の数字を並べながら惨状を訴える台詞にしても、一般映画を観る感覚だと、説明過多に聞こえたり、オーバーアクトに感じられるところもあるだろう。

一方で、原爆投下後の惨状は広大な風景として映し出される。おびただしい数の死体が転がる中で、生き残っている人がわずかであることが誰の目にも明らかとなる、映画化だからできた表現になっている。またそれぞれの登場人物の表情に迫れるのも映画だからできること。特に田辺誠一が演ずる病身の夫が、「本当に終わらせるべきは核ではなく戦争」と訴える場面は、それまで遠景や舞台を撮っているように引いていたカメラがグッと迫る印象的な場面になっている。

舞台で語り継げばいい、映画にして何も説教くさい作品にしなくてもいいのでは、という意見もあるかと思う。でも映画にするからこそ、原爆投下後の長崎で人々が抱えていた思いや、浦上天守堂の様子が、多くの人に伝わりやすい機会となる。エンターテイメントではないけれど、舞台の雰囲気も残しつつ、語り継ぐべき物語としてこの映画が製作されたことは大事なことだと思うのだ。

昼は看護師、夜は娼婦である鹿(高島礼子)は、壊れたマリア像を守り抜こうと計画する。その仲間である忍(黒谷友香)は病身の夫を支える一児の母。それぞれの過去。登場人物それぞれの台詞の端々に、戦争への怒りと平和を願う気持ちが示される。一つでいい。この映画の彼らの言葉を一つでいいから、心の片隅に留めて欲しい。