sakura

こちらあみ子のsakuraのレビュー・感想・評価

こちらあみ子(2022年製作の映画)
3.0
良さはわかるし、「傑作」と言われるのもすごくよくわかるのだけど、好きになれなかった。観ていてきつい、しんどい。

アトロクリスナーで、昨年末のシネマランキングと直近の宇多丸さんと森井監督のイベントの話に背中を押され、原作未読で鑑賞。


はっきりと示されないけれど、あみ子はなにかしら発達障害を抱えていて、それに適切な対応がなされない環境にいるため、どこにいても浮いている存在。
発達障害のある立場から見る世界、子どもの視点から見る大人たち、というのは非常に上手に描けていて、でもだからこそ家庭内で手に負えなくなってるだけの両親に不足があるように見える。

けれどわたしはわりと序盤から、自分があみ子を愛せる気がしなくて、両親の対応が不適切とかそういう話以前に、我が子とはいえ性格の違い・障害の有無・親側の性格などによって、子どもを愛せなかったとき、じゃあどうすればいいのだろうかって104分中95分くらい思っちゃった。
尾野真千子さん演じる母親は、自分の子どもじゃないのだから余計にだよね。わたしだったらどんなに愛する相手との再婚であったとしても、あの子の母親にはなれる気がしなくて諦めると思う。

端的に言ってしまえば子どもがいるかいないか、正確に言えば、あみ子の立場で見続けられるかあみ子の両親の立場で見てしまうかによって、評価は変わらないけれど好みが分かれそうだなと思った。

わたしはもうすぐ6歳の娘がいて、たとえばマイク・ミルズ監督『カモン カモン』はすごく好きだった。ジェシーも「風変わり」な子どもだけど、ホアキン・フェニックス演じる叔父ジョニーの「聴く」という行為によってジェシーの魅力が観客にも伝わるし、ああこういう視点で娘に接したいな、と思う。
本作との違いが、ジェシーとあみ子の発達障害の有無にあるのか、最終的に対する大人側が受け入れるか受け入れないかにあるのかはわからないけれど、なんか本作は両親がすごく責められているように感じてしまう。
(『カモン カモン』はよくて、『こちらあみ子』が悪いと言ってるわけではない。わたしが前者は好きだったのに後者を好きになれなかったことについて自分で考察しているだけ)
ありのままのあみ子を受け入れられない親、あみ子に適した環境を与えられない親、理解しようとしない親、みたいにどうしても見えてしまって、あみ子を愛せる気がしないわたしも一緒につらくなる。

あと、自分の子どもが「あの子は変わってるから見ててあげてね」って大人から言われて嫌々、友達に付き合われてると思うとわたしだったら耐えられない。

おばけなんてないさを歌いながら歩く人々、ラスト海から手を振る人々のシーンは、『僕と頭の中の落書きたち』と重なった。『僕と〜』は統合失調症の主人公の話。あみ子は統合失調症ではないだろうけど「ベランダに幽霊がいる」って言い続けるところとかからしても、彼女の世界は『僕と〜』でチャーリー・プラマー演じる主人公に見えていた世界に似ているのかもしれない。

ここからは自分語りになるが、娘が3歳くらいだった頃、メロンパンの網目の高くなってる部分だけを剥がして食べていたことがあった。
そのあまりの気持ち悪さがトラウマになってしまって、今でもわたしは網目がはっきりしているメロンパンを娘に与えられない。見た目が気持ち悪いのももちろん、なんでそんな気持ち悪い食べ方するんだろうって思ってしまって、「形おもしろいよね〜」なんて一緒に楽しんであげられる余裕はなかった。3年近く経った今でも、たぶん同じことされたら受け入れるとか理解しようとするとかできず、反射的になんで?無理!ってなると思う。
親なんて、別にぜんぜん完璧な存在じゃない。

娘の奇行はこのメロンパンくらいで、基本的にはあみ子よりジェシーに通ずる賢さがあるな、と思っているので穏便に楽しく過ごせているけれど、もし我が子があみ子だったら、一緒に生活してるだけでしんどいとなってしまったら、どうすればいいのだろうか。
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