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夢の涯てまでも  ディレクターズカット版のTのレビュー・感想・評価

5.0
フランスの歌手クレアは、小説家である夫ユージーンと彼女の親友との過ちを許せず、ヴェネチアで自暴自棄な1ヶ月を過ごしたのち、行く宛のない旅に出る。
道中で出会った謎の男トレヴァーに心を惹かれたクレアは、夫ユージーンに追われながら、謎の男トレヴァーを追うために世界中を飛び回る。



【適当なSF史のまとめ】
この映画は、長いロードムービーでありながらSFでもある。
実はSFの歴史において、その起源は異世界冒険譚(一種のロードムービー)にあるらしい。
かつて科学の進歩は、人間をどこまでも遠くへ連れて行き、未知の世界を見せてくれるものだった。
その典型が、ジュール・ヴェルヌの『海底2万マイル』や『センター・オブ・ジ・アース』。
しかし1960年代を過ぎると、南極や月への到達を果たし、人間の見たことがない場所などなくなる。
やがて科学が進む先は、自然科学が対象とする地球の外側の宇宙でなく、社会・人文科学が対象とする人の内側にある宇宙へと進路を変える(ニューウェーブ運動)。
この典型は、レムによる『惑星ソラリス』。地球から程遠い水に覆われた惑星ソラリスは、足を踏み入れた途端にその人のトラウマを映し出す。


【以下ネタバレ多数】
この『夢の果てまでも』は見事にニューウェーブ以後のSFだと思う。
オーストラリアの原住民たちが暮らす集落は、都会的な世界から隔絶された、謂わば地球の果てだった。

そこに至るために、長大な旅路が必要だったからこそのこの長尺だと思う。
クレアが親友からアパートの購入の話をオーストラリアで持ちかけられたとき、「もうずいぶん昔のことのよう」と言っていた。その感覚を観客にも共感させるために必要な長尺だった。

核軍事衛星を攻撃し全ての電子機器が使えなくなり、世界は着々と世紀末の様相を呈する。彼らも世界も随分と遠くまで来てしまった。
何もかもが終盤に差し掛かる中、最果ての地で小説家はピアノを弾く。
この洒落込んだカッコの付け方が本当に好き。


クレアやユージーンが旅路の末に辿り着いたのは、これだけ長い旅の果てにも関わらず(いやだからこそ?)、夢の映像を見せる機械であり、結局は自分の内側だった。
これがとてもニューウェーブ以後のSFらしい。
そして斬新なのは、クレアが自分の内側を見終わったあとに、自分が長大な旅をした地球を外側から見下ろす仕事に就いていることだと思う。

映像に憑かれた愛する人を引き戻したのは、文章の力である、というのもとてもいい。
映像に憑かれた職業である映画監督が文章の物語る力を本当に信じているようですごくいい。
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