わかうみたろう

裁かるゝジャンヌのわかうみたろうのレビュー・感想・評価

裁かるゝジャンヌ(1928年製作の映画)
-

 ジャンヌ・ダルクがずっと恐怖に怯えていて不気味。裁判で訳わからないこと言ってる神職者に対して怯えてるのだろうけど、自分はずっと怖がり続けているジャンヌ・ダルク自信にも怖さを感じた。怖がってるジャンヌ・ダルクはきっと神職者から見ても不気味だっただろう。死に接近したことで生まれた、今まで神職者たちが感じたことがない感情をジャンヌ・ダルクは感じている。自分の知らない感情はそれだけで不気味であり、死という、神職者たちが一番恐れているものに繋がっているから余計受け入れれない。今まで否定してきた死による存在の無化という現象から目を背けるためにジャンヌ・ダルクに対してサタンの仕業と言い続ける。しかし、自分の感じていることに純粋なジャンヌ・ダルクには神職者達のほうがサタンの声を聞いているのだと言い返される。その言葉を受け入れられない神職者たちの顔は無表情で、とくにアルトー演じる男が顔色を変えずゆっくり迫ってくる感覚は本当に不気味でしかない。


 この映画から私はホラー映画の原点のようなものを感じとった。ジャンヌ・ダルクのような今まで観客が感じたことがない感情を役者たちが表現してしまうことが、一番不気味なのだ。自分の知らない感情を突きつけられた時、その人のことをバカだと突き放したり、キョトンとしたり、笑い飛ばしたりする。ホラー映画は死んでいるはずの人物が幽霊として出てくるからとか、突然幽霊が現れて人を殺すからとか、そういう理由で怖いわけじゃない。死んだ後の感情という、誰も知るすべのないものを表現しているから、あるいはJホラーでいうと現代的に理論で固められた心理学の範疇ではとらえられない感情の動きを登場人物が持っているから怖いのである。そして、その訳のわからない感情を自分のものとして感じられた時、深く映画に感動するのだ。ビクトル・エリセは『瞳をとじて』で、映画内でもカール・テオドール・ドライヤーの話が出てきたが、記憶を失った俳優を通して、この感動を作り出そうとしていた。


 今まで感じたことのない感情を描くことで、ホラー以外にも笑えたり泣けたりできる映画も作れるはずである。(というか、この『裁かるるジャンヌ』を見て涙する人もいるだろう。)それを決めるのは演出であり、コメディやホラーと言ったジャンルが積み重ねてきた歴史だったりもする。カラックスの『アネット』とかツァイ・ミンリャンの『西瓜』や『河』などは極端な展開と演出をすることで感情を揺さぶり、登場人物人物に今まで感じたことのない感情を表出させようとしている。演出は、起こっている理由のわからない事象に対して、観客が、同反応するべきかを示す。だが、観客にとって自分とは異質なものと思える何かが映画の中になければ感動することは出来ない。安易に共感できるのではなく、物語のラストで遂に共感できてしまうような作品でなければ、映画を見た後に頭の中で映画が蠢き続けるような感覚は生まれない。『裁かるるジャンヌ』では、ラスト火炙りしているシーンの煙の上がり方や、女性たちが押し寄せて死刑を止めようとする動き、真上からの俯瞰ショットで下に向かって走り抜けていく人物などの、前半に表情を収め続けたのと対照的な後半の動的な画の動きで、死ぬことの怖さを作り出そうとしている。構造は『瞳をとじて』と確かにとても似ている。けど『瞳をとじて』は死ぬことについでではなく、生きる続けることについての映画だったな。