KnightsofOdessa

フランスのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

フランス(2021年製作の映画)
4.5
[フランスのフランス、或いは俗物の聖人] 90点

大傑作。2021年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。直近のジャンヌ・ダルク二部作の原案となったシャルル・ペギーの別作品『この朝まだきに』から案を得た作品らしく、確かにワーキングタイトルは『On A Half Clear Morning』だった。本作品の主人公は国家の名前を冠したジャーナリストのフランス・ドゥ・ムールである。冒頭はいきなりエマニュエル・マクロンの記者会見に参加する彼女とそのアシスタントであり熱心な信奉者であるルーが描かれている。ちなみに、デュモンはこのシーンが本物かという質問に対して"政治家も俳優みたいなものだ"とか"それを言うとマジックではなくなる"みたいにはぐらかしているが、クレジットを見る限りはアーカイブ映像とのコラージュのようだ。フランスは会見が始まっても隣と話し続けることでマクロンの注意を引き、最初の質問指名をもぎ取るが、マクロンの回答は全く聴かずにトップバッターを取れたことを壁際に立つルーと共に喜び合う。その喜び方も講義中に卑猥なヒソヒソ話で盛り上がるイキった大学生みたいなしょーもなさがあり、フランスの人物像がじんわりと浮かび上がってくる。

番組における彼女は白人の嫌らしさを凝縮したような人物である。彼女は自分の使命としてアフリカの紛争地帯を取材しに行くんだが、その徹底した現地状況への興味の無さ(案内役の仏軍責任者は呆れてる)と自分が中心に映っているかの執拗な確認には驚かされる。つまり、数字を取ることに特化した"ジャーナリズム"(話している内容には興味がない)と人気者として持て囃されることに心地よさを覚えるナルシシズムが合わさり、俗悪な描かれ方も含めて不快指数を極限までふっ飛ばした人間が爆誕しているのだ。それが公のペルソナだとすれば、アホ丸出しな応対しかしないルーや市内にあるだだっ広い家(『ハデウェイヒ』そっくり)で一緒に暮らす冷たい夫と溺愛に応えてくれない10歳の息子に見せる顔はプライベートのペルソナと言えるだろう(フランスがすぐに泣き出すのはデュモンが現場で取り入れたアイデアらしい)。ある日、前を走っていたバイクに追突して運転手バティストに怪我をさせてしまったフランスは、公私のペルソナが混ざり合い、自らの立ち振舞い方と環境について再考を迫られることになる。この混ざり合いというのが特徴的で、番組中にも私生活の中でも頻繁に入れ替わるので、俗物と聖人としての側面が二極化していき、人間誰しもが持つ矛盾をシュレディンガーの猫のように同じ画面に収めていくのだ。

車の事故をきっかけに動き出す作品だからなのか、車のシーンは少々奇妙なシーンが多い。車内でルーと向き合って会話するシーンや事故のシーンでは後部座席から前に向けてカメラが置かれているが、天井やフロントガラス、バックミラーの存在が全く確認できない不気味な画になっている。バティストの家に行くシーンやシャルルが乗り込んでくるシーンでは、まるでドアなんか存在しないかのようにゆるっと立って外に出たり、ヌルっと入ってきたりするのでこちらも不気味。ここでふと思い出したのは、サンドイッチマンのタクシー運転手のネタで、運転手に扮する富澤たけしが客の伊達みきおと一緒に後部座席に座り、そのままサイドブレーキを跨いで運転席に座った場面だ。そういった舞台的な小道具の使い方が映画内での"本物"として現実とこうも不気味に接合されるのかと驚かされる。

本作品で最も象徴的なシーンは、シャルルと二人で通りを歩いていた際に現れる乱暴な男が通りに置いてあった自転車を破壊する場面だろう。男は自転車をめがけて突進してきて、徹底的に蹴り飛ばして破壊し、二人に"お前らもボコボコにしてやろうか?"と凄んで去っていく。まるで昨今のSNSでの炎上を具現化したかのようなシーン(そして実際にフランスが経験した事実)の果てに、フランスはシャルルの肩に頭を預けながらカメラに向き直る。全てを失っても尚"フランス"で居続ける覚悟のようなものを感じた。
KnightsofOdessa

KnightsofOdessa