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天下の伊賀越 暁の血戦のpsychedeliaのレビュー・感想・評価

天下の伊賀越 暁の血戦(1959年製作の映画)
4.0
東映の監督陣の中で名人を数えるといえば,内田吐夢,マキノ雅弘,松田定次の三人にまずは絞られるだろう。その三人もそれぞれ全く違った作風の三人であり,内田吐夢はどっしりと根の生えたような重厚なシャシンを撮り,マキノ雅弘は軽妙さを売りにした人間同士の群像劇を得意とした。この二人がともすれば天性の才能を武器にした芸術家肌の映画を撮るのに対し,松田定次はむしろ計算されつくした映画の方法論に則り,それを長年かけて体得したことにより東映のエース監督という地位を築いたように思える。そういう印象を持つ松田定次監督の映画というのは,その先入観に違わず,実に安定した楽しさがある。つまり,極端な中弛みであるとか破綻というのが少ないのだ。やくざ映画で名を上げ,松田監督の助監督までつとめた沢島忠の時代劇映画を見るとそれが比較的にわかる。現代語を多用した沢島時代劇の可笑しさは一種の天才であって真似のできるものではないが,流麗なモンタージュや平面的になりがちな画面に空間性を持たせるテクニックは松田定次に及ばない。
松田定次は脚本を書かない監督だが,決して脚本を見る目がないわけでない。東映生え抜きにして上質よシナリオを多数書いた中山文夫を見出したのは松田監督で,本作は氏の手になる脚本だ。
時代劇は保守的なものと思われがちであるが,本作を見るとそれがあたらないことがわかる。本来の鍵屋が辻の決闘の物語であれば又右衛門は鬼神の如き武者であり,敗れた甚左衛門は名誉の戦死を遂げたかのように描かれる。しかるに本作では,盛んに「正々堂々闘え」とか「武士の地道」であるとかが叫ばれたあと,すべての戦いが終わったあとで又右衛門が慟哭するのである。「又五郎,お前がつまらぬことをしなければ,靱負殿も甚左も,いやここにいる全ての者が死なずに済んだのだ」
戦後派の脚本家の手によるシナリオの新鮮な感覚。東映時代劇でもこれだけリアリズムへの歩み寄りがあったのだ。
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