るるびっち

TANG タングのるるびっちのレビュー・感想・評価

TANG タング(2022年製作の映画)
2.5
夢は詰まっていないが、邦画脚本の悪い所が詰まっている。
日本の脚本家は、登場人物を深めようという時に履歴書を作る。
幼少期のトラウマや乗り越えられない傷など、主人公の過去を作る。
弊害は過去の出来事なので、回想が増えることだ。
最悪なのは、サスペンスやアクション映画でもそれをする。
『太陽は動かない』『日本版CUBE』等だ。
死ぬか生きるかの時に、回想シーンが始まるのだ。
時間や流れが止まってしまう。
大抵が幼少期の虐待・トラウマ、躓いて人生が開けないキッカケの出来事などを回想する。
人物の深みや、過去の躓きを乗り越える為に見せるのだ。
しかし、サスペンスやアクション映画でもそれをやるのは病気である。
「履歴書作らないと人物描けた気がしない病」なのだ。

インディ・ジョーンズで、蛇嫌いのキッカケの回想をするだろうか? アクションが止まってしまう。
確かに『インディ・ジョーンズ 3』の冒頭でそのエピソードは出るが、回想ではない。だから話のテンポは落ちない。
人気シリーズ3作目なので、 何故蛇嫌いか何故インディと呼ばれるのか等のファンの疑問を解消する為に入れている。そもそも3は父親との関係の話なので、少年期のエピソードは重要なストーリーの一部だ。
邦画みたいに、ただ人物の説明の為に入れているのではない。
逆に言えば、1や2では主人公の履歴は無視してアクションエンタメを完成させているのだ。
現在起こっているドラマと、過去の出来事(人物形成に関連しているとはいえ)は無関係だからだ。
日本の監督だと、インディのような映画でも回想を入れて、アクションを台無しにするだろう。それくらい病的だ。

人物を描くには 履歴書が必須というのは邦画の呪縛であって、 ハリウッド映画や他の国の脚本家はそんなものに囚われてはいない。

本作はアクション映画ではないがエンタメ作品だ。
主人公の二宮和也がやる気のないクズで、その理由は父親を死なせてしまった経緯にある。
映画の真中まで、その理由を引っ張り回想する。
そのせいで前半、覇気のない二宮がロボットとダラダラ旅をする詰らない印象を与えている。
つまり主人公に深みを与えようとして、何故人生に躓いたかの履歴書設定をしているが、却って覇気のないクズにしか見えず、全く興味が湧かないのだ。
次に主人公が父親を死なせてしまった経緯は所詮、過去のことなので 現在起こっているドラマと直接関係がない。だから退屈だ。
実はそれがクライマックスにつながるが、父を死なせたから今度は・・・って予想もついてしまう。全て最悪。

2番目は敵がしょぼすぎる。
敵がしょぼいとドラマは盛り上がらない。
ハラハラもしない。敵が可哀想で虐待にしか見えない。

3番目は、言葉に頼りすぎる。
「トモダチ」とか「ダイスキ」という言葉。
言葉で表すと、それ以上の感情が表せなくなる。
例えば 『E・T』でエリオット少年と ET が、指と指を合わるシーンや ETを自転車のカゴに乗せて、空に舞い上がるシーンが有名だが、あれを言葉で処理したらどうだろうか?
心には何も残らない。情感もない。
名シーンがあれば、ETのストーリーは忘れても、それらのシーンは何十年経っても記憶に残る。
しかし、この映画は来週には忘れるだろう。

「トモダチ」という言葉で纏めてしまうと、友達以上の関係や絆や友情・信頼を表現できなくなるのだ。
友達という言葉を使わず、アクション・リアクション、映像で納めれば友達という言葉を超えた絆を映すことができるはずだ。
それが映画というものだ。

最後に日本の履歴書病の原因は、キャラクターとストーリーを別々に考えるせいだと思う。
よく漫画編集者なんかもキャラとストーリーどちらが大事かといえば、 とにかくキャラだ。キャラが大事、 ストーリーはその後みたいな言い方をする。
キャラとストーリーは、コインの表裏のような関係だと思う。
もっと言えば、キャラ=ストーリーなのだ。
キャラクターの行動が積み重なったものがストーリーだからだ。
だからキャラを深めようとすれば履歴書を作るのではなく、ストーリー自体を深めていけば自然と深まるのである。
その理屈が分かっていない。 全く天動説で映画を作っている。
邦画はまだ、中世の時代を彷徨っている。
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