蛸

ブレードランナー ファイナル・カットの蛸のレビュー・感想・評価

4.7
今回、新作の公開に合わせて本作を見直し、『ブレードランナー』の根底には「絶対性のゆらぎ」とでも呼ぶべき感覚が流れているという印象を受けました。この映画においてはその感覚が様々な形で発現しています。
そもそも、この映画がその物語の枠組みとして採用しているフィルムノワールというジャンルの特徴こそが、「絶対性のゆらぎ」とでも呼ぶべきものだった思います。
映像面においても、ノワールの特徴たる、陰影を活かした画作り、室内でシーリングファンによって撹拌される煙草の煙やブラインドの隙間から漏れる光、雨に濡れた路上などの要素が踏襲されています(主人公のデッカードの情けなさすらノワール的です)。しかし、ノワールの「自分自身の実存が足元から崩れ落ちていく感覚」が、この映画における(リアルとコピーの境界が曖昧になることで生じる)アイデンティティの揺らぎと対応していることこそが重要だと思います(原作者ディックの、所謂ディック感覚と言われるような)(リアルとコピーの境界線が消失していくモチーフは劇中のあらゆる箇所で変奏されます。それは細かいところでは生物の複製品を指し、物語の本質的な部分においては人とレプリカントの違いに対する問いを指したりします)。
物語のレベルで発現している上記のような「ゆらぎ」は、この映画のヴィジュアル面の根底にも横たわっています。SFにおける未来像の一つのパラダイムシフトとして語られがちな、本作の美しすぎるヴィジュアルは(その、あらゆる時代、地域の文化が混沌の中で雑多に共存している様子から)ポストモダン的であると評されます。まさに全ての情報が等価値となり、基準が消失した時代ならではのヴィジュアルです。ここにおいても相対性=絶対性への不信からなる感覚が濃厚だと言えると思います。

物語の骨子は(ピグマリオンやフランケンシュタイン由来の)創造者と被造物の関係性とそこからの脱却です。そういう意味でSFの祖たるゴシック文学的な側面も存在します(モチーフとしてのマネキンや人形など)。
題材が題材だけに映画は「父殺し」を描かざるを得ません。ロイ・バッティは創造主タイレルの目を潰し、彼を殺害します(オイディプス的な展開とは真逆です)。冒頭の眼球のアップショットから、この映画において目は非常に大きな役割を担わされているモチーフです。人間とレプリカントの違いは眼球の虹彩運動によって判断されるのですから、タイレルの目を潰す行為はそのまま創造物と被造物の境界線を破壊することを意味します。
こうしてあらゆるものから絶対的な価値が剥奪されたこの映画において、2019年のロサンゼルスに降る雨は、レプリカントたちが生まれながらに持つ宿命的悲哀を象徴するかのようです。そして、この映画において描かれる涙は2体のレプリカントのものをおいて他にありません。リアルとコピーの境界線が消失した世界において、それでも彼らの感情だけは本物なのです。そう考えると私にはこの映画より美しいSF映画など存在しないのではないかとすら思えてくるのです(もちろんヴィジュアル面においても)。
蛸