タニジリ

LAMB/ラムのタニジリのレビュー・感想・評価

LAMB/ラム(2021年製作の映画)
3.6
藤井にキリスト教観点からの考察を頼まれてみた映画なので気づいたことをしっかり書いてみるぞ

●全体のテーマ
夫婦の最序盤の会話で「時間旅行」「過去に戻れたら」という話が出てくることから過去への逃避とその過程で犯した罪と罰について描かれてるように思った。部屋の奥から取り出される幸福な過去の象徴であるベビーベッド、またはじめアダに対してあたりの強かったペートゥルも、同じく家の奥から出てきたドラムを見たことで過去に戻り、本物のアダがいたかつての時間を幻視してしまったために態度が軟化したと思われる。ペートゥルは最終的に真実から目を背けなかったので過去への時間旅行を終え、再び現在の人生を生きる旅に出るが、取り残されたままの夫婦は…という大筋に感じた。

●宗教モチーフ
・アダ
子羊はそのまま犠牲・生贄の象徴だと思われる。映画の最初のシークエンスが聖夜(白夜地帯でほとんどの夜が白昼で描かれる中このシーンだけ暗闇だったよな?キリスト降誕の聖書の場面を思い出さざるを得ない)であることからも、神の子(奇跡の子)として描かれていることは明らかで、そこに夫婦が失った娘の身代わり=犠牲の人生を負わされたというニュアンスが乗っていると思った。終盤羊の群れの絵を見つめるシーンがあるが、あれは野生の本能への回帰のようにも、羊=キリストに導かれるよき信徒たちとして宗教的使命に目覚めたようにも思われる。
・マリア
名前からして明らかに聖母マリアの立ち位置であり、割とずっと青い上着を着てたのもそのためだと思う(聖母マリアの持物は青いマント)。匂わされてたとはいえ娘がいたとわかる明示的な描写を後半までしなかったことで前半は処女性を伴っていたと感じる。ただ中盤唐突に入るセックスシーンで、聖母と違い処女性を持たない存在であることがはっきりと確認される。特段華美な服装というわけではなかったが、弟との不倫関係などの愚かさの表象もかなりあったことから、特に後半に関してはマグダラのマリアも兼ねているかもしれないと思った(マグダラのマリアは娼婦で、着飾った格好で描かれる)。
・羊
マリアが寝てる間に羊の夢にうなされている描写、なんかツノが山羊っぽいのも相まっていかにも悪魔の象徴に見えるけど、マリアが罪(=母羊の銃殺)を犯すのに特に悪魔の介在は見られないので(ポーランドが制作に絡んでるようだが、同じくポーランド映画のゆれる人魚は罪と悪魔が明確に連動しているし、カトリック圏ならここは外さないと思う。ヴィーガンズハムもそう。)、むしろ羊の群れを殺された母羊の犠牲の象徴として、マリアの中の罪悪感を表していると見た方が描写に準拠してるように思うが。本当の子供の代わりに羊が差し出される構図は旧約聖書のイサクの犠牲との類似も想起される。差し出された羊の親が可哀想だろという視点はなんか新しくて面白いな。
・犬と猫
犬は忠誠/女性の夫への貞節の象徴、たまにワンカットで入る猫は悪魔の象徴。どちらもいることに何か意味あんのかなと思ってみてたけど、終盤で犬が死んだあたりとマリアの弟との関係、 罪の強調が連動しているので、悪魔側に堕ちた描写なのかなと思った。また生死の連動から言っても犬は旦那の守護者で猫はマリアの守護者のように思われる。犬が夫婦間の貞節を表している絵画としてはヤンファンエイクのアルノルフィーニ夫妻の肖像が有名です。
・ラストシーン
マリアが1人立ち呆然としているシーンで終わるが、ここは「改悛のマグダラのマリア」(エル=グレコの作品とかそっくり)か「悲しみの聖母」の図像だと思って間違い無いと思う。なんか初見で気づかなかったけどこれ懐妊してるのか。綺麗な顛末。
・旦那(名前忘れた)
聖書で言うと大工の聖ヨセフ、イエスの養父にあたる存在だけど、あまり存在感なかったな。🐏の父ちゃんが出てくるラストシーンでようやく「本当の父ではない」という役割がはっきりと描かれた。マリアに抱かれるシーンはピエタ(キリストの亡骸を抱く聖母)を意識してそうにもみえたが、とはいえこいつはキリスト役割ではないのでなんとも。
・ペートゥル
名前、アダと共に魚を取る描写、部屋に閉じ込められ一夜を明かす描写から明らかに聖ペテロの写しだと分かる(ペテロは漁師/牢獄に投獄され夜を過ごす場面がある。ラファエロのフレスコ画が有名)。ただ作中ではペテロらしい役割は特に果たしておらず、真実に目覚めて旅に出たということで、恐らくその後の世界で神の子アダの存在を語り継ぐ役割なのではないかと思った。(ペテロはキリストの第一の使徒、イエスの磔刑後も伝道師として福音を説く)
・アダの本当の父
父なる神にあたる。あまりに唐突でちょっと笑ってしまったんだけど、神の子アダの人生および本当の母羊の命を犠牲にし偽りの過去の時間を過ごしたマリア夫妻に神罰を与えて去っていく役割だったと思う。羊(ほぼ山羊っぽいけど)の頭と人間の身体の成体の見た目は聖書の神というよりも牧神パンか、やや拡大解釈すればサテュロス(頭は人で下半身が獣)にしか見えず、念のため西洋美術解読辞典の牧神の項目を確認したところ、第一義ではないが羊の群れの守護者としても描かれることがあるらしい。聖書の神と自然信仰的な意味での神、牧神を色々と兼ねた習合的な神様の描写と思う。ちょっと深読みすぎかもしれないけど、この映画を冒頭のアダ懐妊とラストのマリア懐妊をそれぞれ始点、終点とした性・出生にまつわる物語とすると、殺生が銃(=フロイトの夢分析における男性器の象徴)で行われているのはかなり興味深い。冒頭シーンもセックスを予期させるものだったので、生と死どちらにも男性器/男性性が強く介在していることを示しているか。人間サイドが銃使うのは分かるけど🐏お父さんが銃使うのかなりシュールだったので、当たらずとも遠からずだと思う。

・羊飼い
キリストとキリスト教徒の関係は羊飼いと羊としてよくあらわされる。一方で先述したように羊はキリストの犠牲的役割の象徴でもあり、そこら辺が入れ子になった作劇だなと思った。辞典みてたら「救い出され群れに戻される羊は改悛した罪人を象徴する」とあり、アダが父に連れられ野生に戻っていくラストシークエンスはここら辺にかかってるのかもしれない。

・音楽の表象
ペートゥルやマリアの音楽描写とサテュロスを重ねている考察をいくつかみたけど、人間サイドに羊/山羊要素が入ってくる余地はなくやや無理筋な論理に思う(羊要素、どう考えても羊サイドに全部一任してるだろ)。ペートゥルを悪魔の役割にみなすには他の直接的な要素(ペテロとの類似)が遥かに強いし、最終的に改心して去っていくのも変。というかペートゥルが悪魔ならマリアは最初善人でコイツの登場により堕ちなきゃいけないが全くそういうプロットになってない。なので楽器の演奏シーンはサテュロスやパンのイメージではなく、一般的に農民×楽器が愚かさの表象だった中世からの流れを汲んでいるだけだろう。ヤンステーンの絵画とか。野良宗教神話オタクって独立したキャラクターしか覚えてなくてなんでも横文字の神様に結びつけるから嫌いなんだよと改めて思った。

・章立て
特に章で分ける作劇上の必然性は感じなかったので単に聖書準拠でしょう

・エンドロール
BGMはメサイアで有名なヘンデル作曲のサラバンド。サラバンド自体は舞曲で特に意味はないんだけど、メサイアの方はキリストの降誕、受難、贖罪、復活を歌ったりしているので、最終的にマリアを遠回しに祝福する選曲に聞こえました。マリアは神罰を経て改悛して、過去の旅を終え未来に向かって進むことになりそう。

・ほか
アイスランドなんでケルト・ゲルマン教的な話も入ってくるのかなと思い、羊というより山羊っぽい見た目なのもあってかなり悪魔崇拝寄りの話を意識して観てたんだけど基本筋はかなりしっかりキリスト教寄りに感じた。ただやっぱり画面構成(19世紀の北欧画家の宗教画と同じ色味してる)とか自然信仰との結びつきの強さはすごく北欧的だと思う。
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