「山に何があるか見えるか?」
1925年のモンタナ。
序盤から2人の表情や仕草に、明らかに幾つもの伏線が潜んでいる。(ゆえに勘がいい人は序盤から物語の構造が読めるだろう)
イェール大学で古典を学んだインテリでありながら、それをかなぐり捨てるように周囲のカウボーイのカリスマとして牧場を仕切るフィル(カンバーバッチ…ウェスタン姿が似合うとは…役者って凄いな)いっぽうスーツに身を包む弟ジョージ(我らがプレモンス)への依存とも束縛とも思えるような態度は…弟が居ない時の不安げな姿は何故か。
「ピアノ・レッスン」の監督ジェーン・カンピオン。撮影監督はアリ・ウェグナー。ニュージーランドロケ、2.39 : 1のアスペクト比による美しい映像。
フィルが崇拝するブロンコ・ヘンリーとは?バンジョーも彼の影響か。
ジョージが見初めた未亡人ローズ(キルスティン・ダンスト、プレモンスと実夫婦)と、その息子(演じたコディ・スミット=マクフィーは「X-MEN」で若きナイトクローラーも)が牧場に滞在するようになり、フィルの偏見と怒りの矛先に。
ローズも特に取り柄もない未亡人だし、息子もたしかに女々しいけど、フィルは異常なほど忌み嫌う。何故か。
“男は男らしく、女は女らしく”という当時の絶対的な価値観のなか、(この物語の芯からの)自己嫌悪の裏返しとして、女性や、女性的なものを憎悪してしまう…かくれた被差別者の反動だ。
この作品のタイトルは、旧約聖書のイエスから神への言葉「私の魂を剣の力から、 そして私の命を犬の力から助け出してください」から来ている。フィルから見ればこの迫害から救い出してくれ、と。いっぽうピーターを主語に考えると…成立し得ない。
ウサギのくだりなど、一種のサイコパスとして描かれるピーターの行いは、犬の力=迫害ではなく、母を虐げる”障害物の除去”でしかない。フィルが何者だろうが”気にしていない”。
この出会いに必然があったとは思わないが、もしそこに意味を求めるなら、それこそフィルにとっては”救済”になったのだろうか。それは少し深読み過ぎるか?
以下、この作品での疑問点をあげとく。
・ジョージの「ひとりじゃないっていいもんだな」の意味は?束縛され恋愛を邪魔され続けてた?
・父親は本当に自殺したのか?ピーターが酒浸りの父から母を守り、精神に異常をきたしたのでは?
・ジョージはフィルと同じベッドに寝るほど親密だったが、どこまで知ってた?
・フィルが急にピーターに優しくなったのは性的嗜好を知られた恐れからの懐柔のため?それだけ?
・ピーターはいつ決意した?ウサギの解剖もすでに練習だったのか?
・なぜ山に炭疽菌で死んだ牛がいると知ったのか?
・タバコのシーン、ラストのロープを撫でるシーンなど、ピーターもその気があった?説も。
いずれにせよアカデミー最有力との噂どおり、なかなか凄い作品だった。さて、「ドライブ・マイ・カー」観なきゃ。