レインウォッチャー

アビエイターのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

アビエイター(2004年製作の映画)
4.0
稀代の大富豪・映画監督・飛行家(The Aviator)、ハワード・ヒューズの波乱と狂騒に満ちた半生。見応えしかない。

映画の中に登場する芸術家や求道者の類は、どうしても映画の作り手の分身としての側面を多かれ少なかれ持つものだと思う。ましてやそれが映画監督というキャラであればダイレクト。
ところが、今作のハワード・ヒューズ(L・ディカプリオ)は、映画監督であるよりも何倍もの濃度で飛行家として描かれている。巨大な金と時間を投じた『地獄の天使』の作成風景も、映画そのものよりあくまでも飛行機ファーストに見える。しかしそれもそのはず、ヒューズにとって映画と飛行機は同義のものだったのだ。

そのシンクロはいくつかのシーンで的確かつ小粋に表現されている。
たとえば、恋人だったスター女優キャサリン・ヘップバーン(K・ブランシェット)の背中に這わせる手が、そのまま滑らかに作られた飛行機のボディを撫でる画に繋がる。
あるいは、映画の試写をチェックしながら飛行機の試作の計画を同時に進め、女優のブロマイドの裏に設計図を描く。
などなど。

「女の胸の曲線美をデザインの参考にしろ」なんて言うくらい(史実の彼もおっぱい星人だったとか)、ヒューズにとって映画=飛行機…いや、というよりは、映画も富もセックスも、彼にとっては《飛行機》の代替物か下位互換だったのだろう。

よって、今作のヒューズを通して描かれる《飛行機》は、やはりスコセッシ監督にとっての《映画》なんだろう、と思わせる。金と時間と人を食い潰し、有象無象を吸い寄せ、ひとつ作れば次を作らずにはいられず、そして何より自分が操縦しないと気が済まない…。
後半で作る巨大な航空艇をして、「無駄なプロジェクト、木のガチョウ」などと揶揄する世間に対し、「生涯を注いだ作品」と断言するヒューズ。このへんに、なっがい映画ばっかり作り続けるスコセッシ監督の魂の片鱗を見たのはわたしだけだろうか。

そんなヒューズというキャラの変人偏屈な魅力(と、それに真っ向勝負するディカプリオ)が何よりの見どころなわけだけれど、その暗部についても克明に表現されている。
彼がもともと持っていた強迫症的傾向が、名声(悪名)が高まるにつれエスカレートしていく。後半に進むにつれ、それは単なる潔癖や神経質を超えた病的なものとして描かれる。

やがて映写室に引きこもってしまうヒューズ、彼の顔を染める血のような真紅のライトは『ミーン・ストリート』の頃から続くスコセッシ節(※1)。彼の身体をスクリーンのようにして自らの映画作品が映り、その音と光に苛まれる様は、過去の行いが重みとなってのしかかるクリエイターの苦しみそのものであり、スコセッシ映画の様々な主人公の姿を思い出すものだ。

このあたりからも、やはりヒューズに対するシンパシー/エンパシーが窺える。史実と比較するとかなり脚色されているが、彼を単なるデフォルメされた奇人・変人としては見せたくない意志を感じる。
それは、この映画があくまでも彼の道半ば、再び「離陸」の兆しを見せるか…というところで終わっていて、この後に待つ更なる孤独・苦痛を描かなかったところからも察せられるようだ。

わたしは、この手の伝記系映画でよくあるパターン、本編が終わったあとテロップや本人の写真がふわ~っと出てきて「彼はその後●●をして、●●な生涯を終えた」「家族の●●は今も存命である」みたいなやつがあんまり好きでない。それ言うんなら物語の中に収めてほしいし、収まらないなら別に必要ない、冷めるだけと思うからだ。
今作はそんな蛇足もなく、あくまでも物語の中に作り手が描きたかった彼の生を収めてくれていて有難い。

冒頭で示される母親との淡い記憶、それは彼の人生を覆う希望であり、同時に呪いでもあったことがわかる。そしてその効果は伝染するものだ。彼の作った映画、飛行機は、やはり後に続く者たちの希望と呪いになった。
その様は、どこまでも《飛ぶこと》に似ている。安定した地上を蹴って、死と隣り合わせの空へ挑戦すること。笑われたとしても、そこでしか見れない夢の美しさが確かにある。

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※1:相変わらず色彩がリッチで、'20~'30年代のロマンあふれるアメリカを再現した画面だけでも幸せになれる作品だけれど、《赤》はやはり重要なカラー。
劇中で二度ある飛行機の試運転中の事故、一度目の時点で既に、不時着した畑の赤カブは飛行機の流した血のようになって、やがて訪れる悲劇を予言している。