のーのー

よだかの片想いののーのーのネタバレレビュー・内容・結末

よだかの片想い(2022年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

見る人の価値観や考え方によって、感想が分かれるタイプの映画だと思う。

劇中、顔に先天性のアザを持つ主人公と“同じように”顔に傷をつくる女性が二人登場する。彼女たちと主人公の対話の場面が特にスリリングだった。

彼女たちはどちらも、顔に傷をつくって初めて「あなたの気持ちがわかった」という内容のことを主人公に話す。しかし、この二人の傷というのは、一方は精巧に似せたメイクという作り物のアザ、もう一方は事故でできた火傷という全く別種の傷である。“顔に傷がある”という一点の共通項をもって、自分が感じた違和感や痛みを主人公と同一のものと言わんばかりに共感を示す彼女たちの口ぶりは、観客側としてはかなり不躾で手前勝手な“共感”の形に見える。

しかし、この映画は彼女たちを断罪したり批判したりはしない。他者の気持ちを自分のことのように解かろうとする思いや、当事者と近い立場になって今まで念頭になかったことを発見することは、それ自体は正しい行いだし、二人とも主人公に誠実に向き合った上での言葉として描かれているからである。それが伝わっているから主人公は反論したり同情を拒否したりしない。そして観客も、人が他人の傷に共感することの無神経さと優しさの両方を感じ取ることができる。

人が抱える傷や痛みや違和感は、そうした人の生きやすさに繋げるため、あるいは生きづらさに寄り添うため、ある程度一般化して共感を求めることも必要であると同時に、本来はその人固有の、誰とも一体化不可能なものでもある。この両者のバランスの取りづらさ、折り合いをつける上での危うさが、これらの場面で印象的に感じ取ることができた。

担任教師の真っ当な注意がかえって主人公を傷つけてしまったという子供時代のエピソードや、映画監督である恋人との掛け違いも、こういった共感や思い遣りの孕む危うさについての物語として見ることができる。

とすると、物語映画を見る際に主人公に“共感”する我々観客のまなざしもまた、そうした危うさと隣り合わせなのではないか、と思わせる。主人公やその他の人の、傷があったりなかったりする顔が、映画として“効果的に”登場するたび、これを“効果的に”と捉えて良いものかというためらいが生まれる。さらに言えば、劇中映画『わたしの顔』は、どのように“共感”をもたらす映画として撮られているのか。危うい“共感”のあり方が二重三重に投げかけられるこの作品は、それゆえどう評価していいのかとても困惑させられる。
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