Paula

キリング・オブ・ケネス・チェンバレンのPaulaのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

DEPENDING ON WHO YOU ARE, THE
SIGHT OF AN OFFICER CAN PRODUCE
EITHER A WARM SENSE OF SAFETY
AND CONTENTMENT OR A PLUMMETING
FEELING OF TERROR
     - CHRISTOPHER L. HAYES

些細なことから始まる本作『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』に関して例えるなら日本ではこんな諺がある『風が吹けば桶屋が儲かる』なんてね?つまり映画の題名にもなったことがある "Butterfly Effect"(バタフライ効果)... 蝶のはばたきが予測不可能な力学を生み出すという気象学から生まれた言葉として、本作のようなドキュメンタリーにかなり近い映画作りがされているいわゆる "Mock・Film" として成立しているのかもしれない。それは...映画の冒頭のテロップより

THE FOLLOWING IS BASED ON A TRUE STORY.

個人的にはこんなテロップを流されるとそんな言い訳がましいフェイク映画にツイツイ拒否反応が出てしまうあたしなんだけれど今回の『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』だけは微妙な部分が多いために仕方ないのかもしれないと考えを改めることに

同じようなケースとして時には、エリック・ガーナーやジョージ・フロイドなどの公務執行中の警官による窒息死事件と比較されることがある。ただ、あたしの偏った考えと蒙昧な頭の中ではケネス・チェンバレンさんの事件とは、その根本的なところで警官による故殺の疑似シンクロニシティとは呼べないものと思っている。先の二人は、軽犯罪から重犯罪にいたるまで警察にご厄介に何度もなっている人物たちで、ある意味、仕方のない部分もあり、ただその警官の執行中を録画されSNSで拡散されたことで大衆から注目を浴びた事件に対してチェンバレン・シニアのケースは何が起こったのかを記録していたはライフ・エイドのサポーターとシニアとの音声録音であり、法医学報告書や目撃者の証言だけの理由から大衆へのアピール不足のために興味を生むことはなかったと思われる。
あたし自身はガーナーやフロイドのケースについてはあまり同情できるものとは言えない。二人には申し訳ないけれど前頭葉の制止を無視する脳ミソ・ウニ状態のあたしなので死んでも当然と思ってしまう自分がいる。その一方、いくら犯罪者であろうとも人の命を奪って良い訳がないという偽善者ぶる自分がいて、2重らせん構造のような多人格形成を映画を観たことで体現している。

Sergeant Parks:Huh. Fu*ker was in
        the Marines.
Officer Jackson:Oorah.
本作のシナリオを象徴しているのが、警官に限らず一般のコケージョンが心のどこかに伝承され肉体の一部になっている負の思考、いわゆる "White Fear" ...これにはいくつかの例がある。
①Airbnb(ホームステイを中心とした宿泊施設や観光体験を手配したり、賃貸物件をリストアップしたりすることができるオンラインマーケットプレイス企業)の賃貸物件をチェックアウトしようとした黒人女性のグループが家主に手を振らなかったため、近所の白人が警察に通報した。
②イェール大学の白人学生は、黒人女性大学院生が寮の談話室で論文を書いているときにうろついていたところを見たことで何かがおかしいと思い、警察に通報した。あまりにもくだらなくて話が長くなるのでこれぐらいにしてと。
"White Fear" を勝手に解釈するとコケージョンが「(カラードに)ここに属してなんかいない!ここにいるべきではない。」または言い換えると暗に「お前らは、ここのもんじゃない。出ていけ!」と言える権限を与えるもの。
※余談として、アイビー・リーグの一つで超が付くほどの有名校イェール大...アカデミー賞を獲った女優・男優が多すぎて載せません。悪しからず、なんてね?
そして最近話題となったのが、"White Fear" の冴えたるものとして

Starbucks C.E.O. Apologizes After
Arrests of 2 Black Men(April 15, 2018
のThe New York Timesより)

コーヒーの味もわからない、極東に生息する粋の意味も知らない格好だけのドン舌イエローエイプたちが通うところのロッキーが生まれ、独立宣言書のある土地ではまんまと黒人二人の仕掛け?(個人の感想です)によって一時は8000店舗を臨時休業に追い込まれている。そんな話、知らないってか?

作中、期待していたのになかなか出てこなかったセリフ...?

I DON'T GIVE A FUCK, NIGGER.
(汚い言葉を承知で敢えて載せました。失礼)

ルーマニアのニューウェーブの旗手プイウ監督が製作したルーマニアの医療体制の恥部を描いたダーク コメディ映画の傑作『ラザレスク氏の最期(2005)』のシリアスにした実録犯罪フィルムのアメリカ・バージョンのようなものだが、エンドロール前には物語の背景と結末を埋める LifeAid (medical alert service)のオペレーターとチェンバレンさんとの実際の臨場感を抱かせるやり取りを数分間付け加えている。それを除けば、全体的にはドラマはほぼリアルタイムで出来事を忠実に再現することに完全にこだわっているようにも見えてしまう。

狭い踊り場とも廊下とも見分けがつかない警官のいるドアの外の照明は蛍光灯でチェンバレン、彼の雑然とした家の照明は黄色味がかった琥珀色のセットアップはドア越しという二つの限られたシチュエーションを視覚と聴覚を使い、ドアから彼の頭の中?へ聞こえる音が補聴器が発する突然の金切り声となり、あてのないフィードバックのようで歪んでいるために彼が抱える両極性であり見当識障害を深刻にさせ限界を迎えようとしている。

特に胸が痛むのは、3人の警官がチェンバレンが部屋の中で悪いことをしていると想像し決めつけ、しかも3者3様でバラバラな方向を向いているのにチェンバレンの明晰さと見当識障害が交互に訪れるのに
“I’m OK — don’t worry”と常に家族を気遣い心配をかけまいとする彼の姿勢と優しさにあるのかもしれない。

ラストを締めくくるオペレーターと彼の録音データを聞いた時、「はっ」とした。それは?
主人公のケネス・チェンバレンを演じたフランキー・フェイソンという俳優さんがチェンバレン本人の声の抑揚や質、話し方のスピードなどよく似ているところに彼の高いパフォーマンス力を発揮していることに驚くしか手がなかった。

胸のあたりが痛むような、息詰まるようなシーンを...
ど・う・ぞ ⁉



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