芋けんぴ

オッペンハイマーの芋けんぴのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.2
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」

僕の郷里でもっとも穏やかで心安らぐ公園の石碑にはこう刻まれている。里帰りをするといつも僕はアンデルセンでパンを買って、この公園のベンチのひとつでお昼を食べる。コロナが明けて、社会見学や修学旅行の学生さんに外国人観光客も多く見られるようになった。

日露戦争では首都機能を担った日本の兵站の地が今では世界有数の平和を祈る都市になっているのだから、不思議なものだ(そして日本で有数の任侠の街だと思われてることも)。

石碑の文言について不満を漏らす声は前々からある。主語が明快ではないからだ。落としたのはアメリカなのだから、これは日本の過ちではない。まして広島の過ちではない、と。

しかし、広島で育った人間なら分かると思うが、平和学習のとき、原爆特集のテレビ番組のとき、広島の人間は必ず原爆を「人類」が背負った業として扱う。

広島人はあるとき決めたのだ。ある一国の責任を問いただし裁くのではなく、レンジを広く全人類に広げ、これを今後どう扱うか。真剣に世界に考えさせようと。

なぜなら、僕らのお爺ちゃんやお婆ちゃんが目の当たりにした火はアメリカや連合国の罪として語るにはあまりに巨大すぎて、そんなちっぽけなスケールで捉えて議論していてはあっという間に世界が焼けてしまう。そう感じたからじゃないだろうか。

科学者たちは自分達の罪として背負い、戒めとしたが、オッペンハイマーは自分の身に背負い、アインシュタインはこんなことになるなら時計職人にでもなるべきだったと語った。

クライマックスでオッペンハイマーに対して投げかけられる「いつから道徳的懸念を抱くようになった?」という問いを
僕は逆に最近のアメリカに対して抱きつつある。

近年、ハリウッドの多様化が進んだ結果、原爆投下を「負」のものとして描くクリエーターが増えてきてるように感じる。例えば「エターナルズ」では原爆投下を悲劇として描いているし、ドラマ「三体」ではシチュエーションを変えて本質を描き出すことで「大義のためなら大虐殺は肯定されるのか?」と視聴者に問いかけ、そのあとで明確に登場人物の口から「科学が政治に言いくるめられて、その結果ヒロシマが起きた!」と慟哭させている。

イギリス出身の偉大なコミック作家アランムーアは早くから広島長崎への原爆投下肯定論が抱える道徳的懸念を感じていたのか。コミック「ウォッチメン」の中でシチュエーションを変えてこの原爆肯定論の本質がもつ危うさを描き出すことで、犠牲になる者たちの姿を通して広島長崎問題を考え直すきっかけをアメリカ人に作った。

「ウォッチメン」は今もなおアメリカ国内でベストセラーを記録しつづけているそうだ。

正直、僕はオッペンハイマーには何も感じない。トルーマンと、やつの思惑にまんまとのって降伏しなかった日本の政府や軍部には中指ひとつじゃ足りないくらいの煮えたぎった憎悪があるが、オッペンハイマーにはない。科学者はああいうものだから、彼の罪を問うてもしょうがない。

断罪もしたくないから、この映画に広島長崎の映像が使われなくて良かったとすら思ってる。

というか、まさしく劇中でも言われてるように左翼の過去があって言うこときかせやすいから選ばれただけで、そんなに自分を責める必要はないと思う。

いつか誰か作ってた。

だからこれは人類の罪なのだ。科学の功績をまず最初に戦争で使わずにはいられない人類の悪癖への罪なのだ。

時系列が混濁した編集はそれこそコミック「ウォッチメン」のドクターマンハッタンの持つ時間の概念のようで、初めてノーランのナンセンスなモンタージュフェチに深い意味性が出ていたような気がする。

終戦直後のロスアラモスで開かれたパーティーでオッペンハイマーが襲われる幻覚も歓声が悲鳴に聞こえたり、抱き合ってる男女の姿がヒロシマの恋人を想起させたり、酔っ払いの嘔吐が被爆者のそれにしか見えなくなったり、「それそのもの」の描写抜きにオッペンハイマーの後悔と悪夢を描き出していた。


しかし、映画の大部分がアカ狩りの話だったのでいまいちプロメテウスの火の話とでチグハグ感が否めなかった。


キャスティングはまぁ豪華。ジョシュ・ハートネットとデイン・デハーンをこの規模の大作に起用して今一度太陽のように輝かせてくれた功績は大いに讃えたい!

特にジョシュ・ハートネット!

我が青春の「パラサイト」の不良学生。相変わらずの良い男!

変わってないのが凄い!


原爆投下におけるアメリカの視点を知るきっかけとして最適だけど、50年代のアカ狩りやオッペンハイマーの聴聞会、ストローズの公聴会この三つについてだけでも事前に勉強しておくと話の理解が早いかなとは思う。

個人的に広島長崎の映像が挿入されない点には大した違和感はもたなかった。

あくまでこれはアメリカ映画だし、オッペンハイマーを断罪する映画でもない。嫌なら観なければいい話だ。ポリコレが嫌いな人たちはなおのこと、この映画に大して抗議するような態度を取るべきではないとも思う。それもまた原爆描写の「政治的正しさ」を求める動きでしかないからだ。僕はポリコレ推進派だけど、特にこの映画に文句はない。十分にアメリカが広島長崎への原爆投下について考え直しはじめていることは伝わったからだ。

きのこ雲の下で何があったかは今後も広島長崎が世界に発信し続ければ良い。それは被害者だけが正確に描写できる世界だから。ホロコーストを描いた映画がそうであったように。

今、僕が知りたいのは「アメリカはいつから原爆投下について道徳的、倫理的な問題を感じるようになったのか」だ。

アメリカの教育現場では原爆投下の是非について学生たちに意見をもたせ、議論させる場があるという。

これは「使ってしまったものの使命」だ。被害にあった広島長崎でこの議論はなかなかできない。

原爆に関する認識の移り変わりが感じられるような映画があったらぜひ観てみたい。


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以下は公開前に書いた本作に関する心情です。リクエストがありましたので、稚拙な文章ですが残しておきます。
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なぜ他国の映画に「フェアな視点」を求めるのか。

その割に自国の映画では「自分達の話」しかしようとしないし、知ろうとしない。

私はずっとこの映画が日本で公開されることを望んでる。この映画に日本の描写は求めてない。なぜなら日本の原爆映画だってアメリカの内情の描写なんてしてないからだ。自分達はフェアな視点に立たないくせに相手にはその視点を求めるのは被害者の傲慢という感じがする。

ちなみに私の祖母は被爆者である。私自身広島で育った。原爆投下時の話はあらゆる被爆者の方から聞いて育った。

こと原爆の話となったとき、僕らは「怒り」を前提とせずアメリカ人の話を聞こうとしてただろうか。

原爆は人類史の、というか知的生命体の進歩の上で、必然的に発生する存在だと思ってる。その証拠にドイツだって日本だってその開発を急いでた。

問題は「次」をどう使わせないか。

永遠に「広島」「長崎」を最後の被曝地にするにはどうしたらいいのか。

その議論のためには、相手の話を黙って聞くことがまずは大事なのではないか。

そんなことどーでもいい!日本で公開するなんてけしからん!

と騒ぐ人たちには「嫌なら見るな」という言葉を送ろう。大好きな言葉でしょう?


日本公開が決まったらこのレビューは削除します。く
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