ワンコ

オッペンハイマーのワンコのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0
【優しさと想像力/朝永振一郎さんとのこと】

※ 特別先行TOKYO プレミア上映

人間は果たしてこの頃と比べて賢くなったのだろうか。

映画「オッペンハイマー」の時間軸をずらし、行き来させながら物語を展開し昇華させる手法は、「メメント」や「インセプション」、「TENET」にも通じるクリストファー・ノーランならではのものだと思う。

そして、これで表されるのはオッペンハイマーのひとりの科学者、男性・夫、市民として、そして最終的にひとりの人間として感じ向き合った高揚感と、その隣り合わせにあった底の見えない苦悩や失意だ。

時間軸をずらしながら高揚感と苦悩・失意を効果的に対比させ、そのギャップを最大限に際立たせているのだ。

そして、エドワード・テラーではなく、政敵の中心人物としてルイス・ストロースを据えることによって、科学と政治の対立、更に両者の間にある溝も際立たせている。

エドワード・テラーはオッペンハイマーの教え子の一人で後に水爆の父と呼ばれ、一般的にはオッペンハイマーを陥れる中心人物とされることが多く、水爆の使用にも躊躇がなくマッドサイエンティストのように扱われることもある。

一方、ルイス・ストロースは原爆開発の成功後にアメリカの原子力員会の委員となった人物だ。
同委員長を経て、アイゼンハワー政権で商務長官代行となり、商務長官就任まで視野に入れていたが、公聴会での偽証を理由に商務長官指名には至らず事実上失脚することになる。

国際政治学者ハンス・モーゲンソーの言葉を借りれば、「国際政治をイデオロギーの対立として考えることは相手の絶滅以外に解決の方法はなく、ひいては戦争を招く」ということになるのだが、この映画に描かれるオッペンハイマーを陥れんがための権謀術数や公聴会でのやり取りは既に戦争であるようにも思える。

映画「オッペンハイマー」はオッペンハイマーの原爆開発や、アメリカの日本に対する原爆使用、その後の水爆開発に関わる高揚感や苦悩・失意を描いているが、実は、多くの想像力を使って ”感じ、考える” 映画ではないかと僕は思っている。

広島や長崎の惨状をもっと描くべきだったと云う意見があることは理解しているし、僕もそうした気持ちに寄り添いたい。
だが、ドキュメンタリー映画「娘は戦場で生まれた」で描かれたシリアのアレッポ、そして、毎日のようにニュースで流れるウクライナのマリウポリなどの荒廃した街、ガザ地区の惨状を見て、一瞬でこうした壊滅的状況をもたらす核兵器が存在すると想像することは大きな意味があるのではないのかとも思う。

クリストファー・ノーランは朝日新聞のアカデミー受賞後インタビューで

「特定のメッセージを送ったり、ある人について『こう考えて欲しい』と言ったりするのはあまり有用ではない。特定の行動をとった理由や、その瞬間の体験を理解してもらうことが狙いだった。彼(オッペンハイマー)の視点から物事を見ることでわかる複雑さと矛盾がある。その複雑な矛盾にこそ、彼の物語と向き合う価値がある」と話していた。

また、他のアカデミー賞受賞後のインタビューで

「核の数を減らすため政治家や指導者に圧力をかけようと活動している組織に目を向けることが、とても大切だ」とも言っていた。

TBS「News23」が毎年8月に広島出身の綾瀬はるかさんによる被爆者の方へのインタビューを特集している。

僕のレビュータイトルは、以前その中で被爆者の高齢の女性が、彼女に「命ある限り被爆体験を語り伝えたい」と、そして若い人にも戦争や核兵器の恐ろしさを後世に伝えてほしいのだけれども、そのために必要なのは『優しさと想像力』ではないかとお話しされていたところから取ったものだ。

この映画が示唆するのは、僕たちの未来でもある。分断が進み、イデオロギーを背景にした連中の攻撃は強まるばかりだ。

白人至上主義、イスラム教原理主義、ロシア人至上主義、中国共産主義の殻を被った漢民族至上主義、ユダヤ教原理主義はそうだ。最近はだいぶ弱体化したが、リベラルな発言に対して、いちいち反日とバカの一つ覚えのような発言を繰り返すネトウヨも同様だろう。

彼らは、リアリズムを強調しがちだか、争い(戦争)の後の未来は提示しない。理想とするものが現状以外に思いつかないからだ。

僕たちはこうしたものと向き合わなくてはならないのだ。

邦画の2021年公開「映画 太陽の子」のレビューでも触れたのだけれども、オッペンハイマーは原爆開発に携わる前、素粒子物理学者として「場の量子論に於ける無限大の問題」を研究していた。しかし、米政府にマンハッタン計画の責任者に指名され、その後は、映画でも描かれるところだが、最後に触れさせてもらいたいのが、日本人で2番目のノーベル賞受賞者となった朝永振一郎さんとのことだ。

朝永振一郎さんは、戦中・戦後の荒廃し物資も何もかも不足するなかで、オッペンハイマーが取り組んで解決に至らなかった無限大の問題を解決していたのだ。

朝永振一郎さんは、戦争で発表の場を失われていたのだが、「これを解決していた」とオッペンハイマーに直接手紙を書いた。そして、オッペンハイマーは、これに驚き、その後、朝永振一郎さんの業績発表の場づくりに尽力することになる。そして、朝永振一郎さんはノーベル賞受賞者になった。

オッペンハイマーは、映画で描かれたように、科学者としても、男性・夫としても、市民としても、政治思想でも、人間としても複雑さと矛盾を抱えた人物だ。だが、それは僕たち皆も似たり寄ったりじゃないのか。

ただ、この朝永振一郎さんとのことを考えると、映画の公聴会の場面で科学者のほとんどがオッペンハイマーをサポートしていたのは当たり前のように思えるし、彼の科学者として、人間としての良心を考えずにはいられない。

オッペンハイマーの生涯は、実は僕たちに大きなテーマや生き方を考える大切さを問いかけているような気がする。

原爆のチェーンリアクションはなかったけれども、核軍拡競争は止められなかった。

核兵器を作るのも人間だが、核兵器の開発や使用を止められるのも人間なのだ。

ウクライナ侵攻が明らかになった直後、日本に「核シェアリング」が必要だと発言したバカな政治家が複数いた。

この映画を観たらどう思うのだろうか。きっとリアリズムを主張するだけだろう。
僕たちが向き合うのはこうした知恵は足りないが自己主張だけは強い者たちでもあるのだ。

※追記:

① 林檎の場面は表現に対する違和感が仮にあったとしても、あれは、事実上のコンピュータの発明者であるアラン・チューリングに対するリスペクトを表したのだと思う。

② あと、スペイン内戦に対するオッペンハイマーの支援の話が出ているので、少し説明すると、スペイン内戦では、反ファシズムの左派、フランコ率いる右派が戦ったほか、アメリカ人作家のアーネスト・ヘミングウェイなど反ファシムズ派として欧米からも義勇兵が参加、ソ連が反ファシズムを、ドイツとイタリアがフランコを支持・支援するなどし、カトリックが全体主義のファシズムを支持したことから内戦は複雑化、隣人同士で争ったケースも少なくはなく、そもそもソ連支援だのの判断材料になりえないと云うことなのだ。まあ、観る人をある意味選ぶ場面だと思う。
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