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オッペンハイマーのdemioのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
2.5
物理学者が(ないし理論家)が、社会に供する成果を目指すとき。つまり抽象の世界を生きる理論家でありながら政治・産業の論理に積極的に参入していくとき、彼が構築した専攻の理論の高度さとは対照的に、政治・産業の論理においては極めてナイーブな態度を示す。そういうことがこの社会ではよくある。予想どおりというか、そういう様相をえがく3時間だった。
「よくある」というのをもう少し書くと、伝統的に、物理系=工学系はその国の保守主義と相性がよい。軍事やインフラを担うという一点で交差するからだ。「この橋を作るのに何億円・何万人を動かす」「地域の生活を変える」「新しい通信技術で日本人のコミュニケーションのあり方を変える」等々、物理工学系の人々が構築した学知から成果を生み出そうとするとき、必ず扉を4,5枚開けた先に「国」という視座が拓けてくる。
理数系・工学系に保守派のイデオロギーがあると言っているのではない。むしろそういうイデオロギーが"ない"と言っている。イデオロギーを持たず「純理」を愛する理論家たちの足元に、産業の側が、保守主義者たちとのパーティー会場へのレッドカーペットを敷いているのだと言っている。これは仕方のないことだと思う。そのレッドカーペットは「純理」の人たちにとっても恍惚の線上なのだから。
オッペンハイマーが学究の末に得た核分裂の再現可能性から、原爆という「産業的」成果が生み出せると確信して以降、法悦を得たように、国家からの要請(マンハッタン計画)に対し、理論家という本職に似合わぬ調整者の役目をまっとうしたのも同じことだった。
戦後(広島・長崎の原爆投下後)、オッペンハイマーは反省的「苦悩」に陥る。この「苦悩」について大事なことは、それが映画のテーマでありながらも、まったく大した理屈のない「苦悩」だったということにあると思う(もっと言ってしまえば、そもそも映画は苦悩ないし、内言の折り重なりをえがけるメディアではない)。
ある科学者の、射精と、その後の「賢者タイム」(いま臨時で自分にこのスラングの使用許可を下す)があるだけだった。この映画の3時間は、1時間ずつの三章立てだった。
第一章:理論家(核分裂の学理を得て、勃起する)
第二章:原爆製造(マンハッタン計画のリーダーを務め、ペニスをしごき始め、射精=原爆実験に成功する)
第三章:苦悩(戦後、賢者タイム)
「賢者タイム」という概念の優れたところは、実際にその人が「賢者」になったわけではないという含意にある。ペニスをしごいている最中と「賢者タイム」になった彼の間に知性の変動は一切ない。性快感が大きいほどに反動的な冷静さを得るのは、ただの器官的な段階論に過ぎない。
同様に戦後のオッペンハイマーの「苦悩」も、(IMAX上映の意義の多くが託された)プロトタイプ原爆の実験成功というあの「射精」の場面が派手だった分、その振り戻しが大きかったというだけに過ぎなかった。原爆の開発成功のあと、オッペンハイマーが末端メンバーから「失礼ですが後は私たちにお任せください」と突き放される場面が示していたように、両手が空白になったから物理的に流れ込んできたセメント的「苦悩」と言えようか。とても転向とは言い難い一様の事態である。(このあたりの、核技術に参与する科学者・政治家・実業家たちが高揚→反省をワンセットで行う精神構造の出来レース性は、日本の原発成立を詳細分析した開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』が詳しい)

そういえば、途中オッペンハイマーが珍しく非物理系のマルクスとフロイトの名を挙げる場面があったが、大学で英文学の一環で精神分析理論を学んだクリストファー・ノーランが、また自身のフロイト主義を作中匂わせてきたな、と思った。人間の精神においては、ホルモン分泌的な「情念」が先立ち、そののち言語でつむがれる概念的思考は、器官的産物の「情念」を追認しそれに符合するように形作られるという「事後性」をフロイトは執拗に説いたが、この「事後性」は戦後オッペンハイマーの態度によく合っている。そう見れば、ダークナイトシリーズから一貫した「フロイト主義者の映画」だったと思う。

とはいえ、映画としてはだいぶつまらなかった。
ストレートに退屈すぎる。登場人物たちが物理学者で、その語彙が駆使されることを差し引いて観れば、アメリカの反共のゴタゴタ史実をえがく作品としてはかなり定番的な作りだった。
強いて言えば、オッペンハイマーにとっての共産主義とは、騎乗位で膣を貸してくれる妻と出会えたパーティーの名前であり、その快感の代償に戦後ソ連のスパイ嫌疑をかけられるという皮相さはユーモラスだったかもしれない。
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