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オッペンハイマーのアー君のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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今までの製作スタイルの流れをみると前作が「TENET テネット」のようなトリッキーな映像表現であれば、次作である本作は「ダンケルク」のように派手さがない感じではないかとクリストファー・ノーランの作品を知っていれば、大凡(おおよそ)の予想はしていた。

[↓以下ネタバレを含む内容がございます↓]

オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーの演技指導にはデヴィッド・ボウイのペルソナのひとつであるシン・ホワイト・デューク[Thin White Duke、痩せた(Sin罪深き)青白き公爵]から参考にするよう指示があったようだ。ボウイはこのキャラクターに対して「〝アーリア人種〟の様でありながら、感情を全く持たないけど、とてもロマンチックな人物なんだ。」と過去のインタビューで語っている。

(これは「ダークナイト」のジョーカーを演じたHeath Ledgerに「時計仕掛けのオレンジ」の主人公やSEX PISTOLSからインスパイアするように指示をしたようにでもあった)

初期の代表作である「Mementoメメント」のエンディングテーマとして「Something In The Air」使ったりとノーランはボウイには思い入れのあるアーティストとしてリスペクトしている。

また過去作「プレステージ」では、交流電流を発明した実在した科学者であるニコラ・テスラ役をボウイがゲスト的な位置付けで配役をしていたが、晩年の地球を二つに割る機械を考案しようとしたマッドサイエンティスト的な側面や偏屈な性格をした人物であったが、科学者であるオッペンハイマーを主人公にした理由もテスラからの影響で膨らましたのではないだろうか。

本作は題名通りオッペンハイマーの半生であるが、ノーランの得意とする時間軸が交錯する公私を交えた理論物理学者の伝記的なドラマであったが、実在の登場人物による人間関係や歴史的背景を熟知しなければ、些か理解しづらい内容であろう。

マンハッタン計画における最高責任者という意味では、客観的事実の曖昧さとアインシュタインとの会話も作り話であり、ノーラン自身の家族関係による反映が混ざった妄想で難解にさせていた。

原子力委員会のタニマチであった成り上がりのルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)との確執や、レッドパージにおける自身の聴聞会の場面などが同時進行で起きるプロットは編集、技術的には独りよがりが目立ち、観ている側にはとても不親切であった。時系列を合わせて素直にタイムラインに沿った正攻法で挑戦をするべきである。

「TENET テネット」はその順行、逆行の世界観が自身の感性を上手に反映をしているが、クリストファー・ノーランの時間軸の乱れは、彼の自閉症的な記憶の時系列的順序が崩れからの脳内による以前の記憶と目前の現在との混同による症状からであるため、このドラマにおいての必要性を感じることはできなかった。

そして実験による爆発の場面は、核分裂から起きる爆発とは程遠く稚拙な演出効果であった。ノーランの性格からすれば、リアリティに拘り本当に核分裂をさせたかったのではないだろうか。そのジレンマをこの失敗した映像から読み取れることができた。(科学者を雇って実際に核分裂を起こせば、監督生命は終わりではあるが。)

映画におけるオッペンハイマーの人柄になるが、リンゴに青酸カリを入れた未遂の話(ほぼ実話だがバレて問題になる)など罪悪感という面において人間味は少しぐらいはあったのだろう。しかし原爆投下後のスライドによる犠牲者を直視できない場面は、「直感像」として分子構造や核分裂の方程式を頭の中で計算処理ができるが、他の想像力が欠如している印象がある。食事には無頓着で新居にキッチンを作らなかったり、衝動的に自分の子供を養子にお願いする場面も奇異行為の一例である。

女たらしの情けない男であるが、少しだけ史実に誇張した描き方をしており、「ダークナイト」ジョーカーのようにカリスマ性を露骨に出さない演出を意図的にしている。これは人間オッペンハイマーの影響力を極力下げなければ、過去にジョーカーの扮装をした男による爆破事件のような危険性も意識しているためである。

後のルイスや元同僚(エドワード・テラー)との対立と水爆開発による反対表明は投下後の贖罪ではなく、行き違いからの政治的な思惑も絡んでおり、放火犯でも消防士と一緒に消化活動は容易で可能であることは忘れてはならない。

「反戦・反核よりも反共に敏感なオスカー権威主義」

鑑賞後の感想として原爆被害を受けた場面が映っていないことに疑問が残る声が被爆国である日本から多数あったが、確かに一人の科学者の半生からのドラマによる弁解だとしても、不自然で過不足な内容であった。

オッペンハイマーが共産党と内通していたのではないかと聴聞会で嫌疑がかけられて失脚する事となるが、当時のマッカーシズムによる赤狩りは芸能関係にも矛先が向けられており、リベラル寄りのハリウッド映画人も糾弾の対象であった。現在のハリウッド・ショウビズは極論になるが、ユダヤ系と民主党シンパによる左派の巣窟であり、マッカーシズムによる批判と反トランプの流れによる相乗効果により受賞をしたのが要因である。

私感になるが、今回のアカデミー受賞に対してノーランはスピルバーグ化した感じも否めない。小器用に振る舞う人たらしは何処となくオッペンハイマーのようでもあり〝名誉ユダヤ人〟とまでは言わないが、受賞のための計算高さを感じてしまい、好きな映画作家だけに甚だ残念ではあった。

話題作りとして自分の娘を擬似的に役柄として被曝をさせたところで本当に原爆で家族を失った立場からすれば何も解決にはならない。爆心地ではすべてが消滅して証言も得られなかった事実をどうみているのだろうか。百歩譲ってノーランは原爆を投下をした広島、長崎、実験場であったニュー・メキシコ州である世界中の被爆者へ哀悼の意を映画で表明をして製作をするべきではなかったのではないだろうか。

彼らが学んだ理論物理学は物質の本体を限りなく追求することであり、思想は唯物論に行き着くのが当然至極のことではあろうが、科学者の気まぐれな感情で人類の将来を弄ぶべきではない。

今回の無採点による評価は作品としての出来不出来が原因でもなければ、原子力爆弾によって被害を受けられた犠牲者への配慮でもない。自身の無学さと卑しさを晒す意味でもある。

政治色の息がかかったアカデミー賞に対しては、この倒錯した複雑な映画を数回見直すよりも、皮肉と非可逆的な回答として大江健三郎「ヒロシマ・ノート」を読むことを推奨したい。

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東京裁判における日本側の米国弁護人であるベン・ブルース・ブレイクニー弁護士が、反証でアメリカの原子爆弾投下問題を公正に取り上げている。

「真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は原爆を投下した者の名を挙げることができる。」

「原爆の投下を計画し、その実行を命じながら、これを黙認した人物がいる。彼らが裁いているのだ。彼らも殺人者ではないのか。」

※この公式発言は当時の裁判記録(日本語)には残されていなかった。

[TOHOシネマズ日比谷 〈IMAX〉 9:00〜]
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