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オッペンハイマーのMのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.5
ひとことで表すなら、恐ろしかった。
これはこの映画をこきおろす感想ではない。恐ろしいものがまっとうに恐ろしいものだと思える描かれ方がされていた、という意味で、ある程度は評価できる映画だと思う。どんなところを恐ろしいと感じたのかをこの下になるべく書いていくが、その前に、なにはともあれとにかく日本で公開されてよかったと思う。観る権利が与えられて、観たうえで考える機会が得られてよかった。「原爆が題材だから日本で公開するのはやめておいた方がいいのでは」という意見には賛同できない。原爆が題材だからこそ観る機会を奪われてはならない(観るか観ないかを自分で選べるべきで、最初から選択肢すら与えられないのは違う)。

前提として、この映画は史実に基づいてはいるけどあくまでフィクションである、という視点で観た。歴史と異なる描写もいろいろあるけどそれらは「オッペンハイマーが見ていた世界を想像して再現した」という表現だと受け止めている。

広島と長崎の惨状が映されていない、とたくさんの人が(アメリカ人も日本人も)指摘しているらしいけど、これは難しい論点だと思う。「オッペンハイマーは実際に原爆投下後の広島・長崎の実情をよく知らなかったから、映画でもあえて映していない」という説明はある程度納得できる。
しかし、どんな人が「オッペンハイマー」を観るのか、という問題がある。日本では原爆で街と人がどうなったかという認識がほとんどの人に共有されているから、脳内でその部分を補完できる。人によっては「あんな地獄を題材にしていながらなぜその1番大事なところを映さないんだ」と思うこともできるし、「あんなことが起こったのに、オッペンハイマーはこの程度の認識だったかもしれないのか……」と思うこともできる。
だがアメリカの人々はどうか? この映画はアメリカで大ヒットしたらしいが、多くの人は実際の原爆について「例の特徴的なきのこ型の雲が発生する、強いパワーを持つ兵器のひとつ」くらいにイメージしているかもしれない(アメリカで原爆についてどのように教育されているかについて私はよく知らないのでこれ以上のことは書けないけど、岩波の『なぜ原爆が悪ではないのか──アメリカの核意識』という本を買ったのでこれから読むつもり)。もしそうだとしたら、この映画でも結局「きのこ雲、非常にまぶしい光、爆風の衝撃」しか描かれていないのだから、当時のオッペンハイマーが被爆後の惨状を正しく理解していなかったと考えられるのと同程度に、今のアメリカのほとんどの観客も原爆について正しく理解できていないのではないか。うまく書けないが、アメリカの多くの観客が原爆観の認識をアップデートできていないことの証拠に、「バーベンハイマー」というミームがギャグとして使われたりエミリー・ブラントがファッションについてのコメントで原爆を気楽なブラックジョークとして扱ったりするんじゃないか、と思わざるを得ない(エミリー・ブラントの発言を広めようとしている日本語話者のアカウントがあまりに酷かったのでそれについては深入りしたくないけど)。映画「オッペンハイマー」の評判についてはアメリカのものと日本のものしか私は知らないから、そのほかの国でどう受け止められたかについてはここには書けない。
(まあただ、「これをジョークとして扱ってはいけない」は文化によって認識が全く異なるものではある。「ナチスによるホロコーストはネタとしていじったらいけない」は世界の(いわゆる西欧的価値観を共有する先進国では)常識になってるけど、原爆はまだそうはなっていないし、ほかにも悲惨な歴史なんていくらでもある。日本人で、「気に入ったスマホケースを見つけられていない」というだけのことを表すのに「スマホケース難民」やら「スマホケースジプシー」やらという言葉を使う人もいる。難民やジプシーという言葉のあらわす惨状が想像できていない。私も原爆以外の兵器についてはろくに知らないし、どの国のどの街がどのように戦争の被害を受けてきたのか、ほとんど知らないことばかりだ。核兵器が人類史に登場したのは決定的な出来事ではあるが、原爆「だけ」を特別にセンシティブなものとして扱わないといけないわけではない。日本軍がどんなふうに人を殺したのか、私も知らなさすぎる。)
私は広島出身で被爆者の孫だが、だからこそあえて改めて書くが、広島は戦争によって大きく発展した街でもある。1940年代の日本において、広島は軍事的に重要な拠点だった。広島の人々の仕事が日本の戦争の一部を支えていた、広島で作られた軍艦が多くの人を殺した。日本が/広島が受けた「被害」についてはすでにある程度のことを知ってはいるが、「加害」についての知識はいまだに不十分だ(私も含めて)。加害についても事実に即して正しい知識を持ち、考え、まっとうに反省しなければいけない。それが第一歩だと思う。

この映画はきっちりエンターテイメントとして作られていた。そこも非常に恐ろしかった。テンポのよい会話劇とカメラワーク。インパクトの強い音響や振動、作り込まれた映像美。深淵なる物理学に思いを巡らすオッペンハイマーが宇宙や原子のイメージを頭に描くとき、「美しい」映像がふんだんに使われる。トリニティ実験の爆破のシーンも、惑星の終焉のような、太陽のフレアのような、どこか自然の美しさを想起させるようなドラマティックな映像が映し出される。
原爆と美しさをすこしでも結びつける演出がものすごく怖い。それは兵器や戦争描写全般に言えることだとも思う。宮崎駿の「風立ちぬ」では「美しい」戦闘機を作った人が描かれる。戦闘機が破壊された無惨な姿で草むらに放棄されている映像はあったと記憶しているが、それ以上の具体的な戦争描写はほとんどなかったと思う。兵器と美を関連づけて描くとき、そこにどれだけの批判的視点があるだろうか。
映画の中で「神」という言葉が出てくるのもものすごく怖い。もちろんオッペンハイマー(や、映画製作陣の)宗教的な考えが大いに反映されているだろうから、その宗教観を理解していない私にとってよくわかっていない部分も多いけど。物理学の諸現象の背後にある法則なんかについて「神」という言葉を使って表現するのはまあわかるけど、戦争の中で実際に兵器として使われる爆弾を「神」みたいなフワッとした大きい概念で誤魔化すのを許すわけにはいかない。星の誕生や星の死、避けようがない自然災害などとは違って、戦争は人が起こすし兵器は人が作る。すくなくともこの映画の中では、科学者は政治家の権限を強調して自分の非を軽減させようとする。

それから、原爆投下後の街の様子や被爆者の姿がありありと映されていた方がよかったのか? 本当に? という疑問がある。もし仮に、この映画を観たアメリカ人に話しかけられて、「もっと日本人が苦しむところを観たかったのに、この映画ではそれがなかった」という言い方をされたら微妙な気持ちになるんじゃないだろうか。逆の立場だったらどうか。たとえば日本が戦争でいかに加害してきたかということを描いた映画があったとして(現状なさすぎるのも大問題だが)、その中で「もっと相手の国の被害の状況をじっくり観たかった」と思ったら、そのとき自分のなかに「ホラー映画やゾンビ映画を観てグロ描写の気持ち悪さを楽しみたい」みたいな欲望があるのではないだろうか。人がむごたらしく傷つけられる様子を映画館という安心安全な環境で鑑賞して、「ショックを受けた、考えさせられた、勉強になった」と言いながら実際には楽しんでいるような、そういう欲求も自分のどこかにはあるんじゃなかろうか。
この映画において、被爆者が一瞬で人の姿を失うさまを特殊メイクやらCGやらで丹念に映像化したとしても、それが必ずしも原爆の「正しい」理解につながるわけではないんじゃないかという懸念がある。映画館を出たあとの感想の第一声が「被爆者グロかった〜」「こわすぎ」「気持ち悪くて吐きそうになった」みたいな感じになったら、それはそれで非常によろしくない気がする。
映画の中で「これは被曝の瞬間と、そのとき人の皮膚に起こる反応、そして死んだ被爆者を表しているんだな」というシーンが出てくるが、その描写がきわめて中途半端なのが1番よくなかった気もする。あんな描き方だと、「被爆者のイメージだ」と気づかない人もいるし、「被曝っていうのはこういう感じか」と実際より軽い被害を想像してしまう人が大半だろう。あんな弱腰の被爆者描写なら全くなかった方がだいぶ良かったのでは。
ただ、被爆者ひとりひとりの姿ではなく、街の映像くらいはあっても良かったのでは…と思う。どうせ原爆投下前の広島・長崎の街並みを知っている人は少ないだろうし投下後だけを映しても「もとから田舎だったのかな?」くらいでケロッと受け止められてしまうかもしれないから、投下前の街にどのくらい建物があって、人々の往来があって賑わっていたか、を映したあとで投下後の廃墟を映してほしい。そこにあった生活が一瞬で奪われ、それ以降さまざまなかたちの地獄が長く続いていったということをもうすこしだけでも想像できるような描写がほしかった。そういう描写がなくてもみんなわかってくれる、とは思えない。世界はまだとてもその段階には達していない。オッペンハイマーの伝記映画だから彼の認識を再現したまで、と言うのは映画の影響力を考慮していない(考えるべきことについて、わざと考えるのを放棄している)ように思える。ノーランが作る大作という時点で、しかも実際あれだけエンタメ的に「おもしろく」「観やすく」作られているのだから、すごく大勢の観客を動員させて映画としてヒットさせることは最初から想定していたはず。ひとつの映画の中ですべてを語ることはできないが、それにしてももうちょっとやりようはあっただろうと思う。原爆を扱ったアメリカの映画としてはだいぶましな方だとしても、これで十分とは決して言いたくない。それはそれで映画や観客を舐めすぎだと思う。われわれはもっと良い作品を希求することができる。わざわざ低いレベルに射程を合わせて「まあこんなもんだよね」と言う必要はない。せっかく多くの人が観た映画になったのだから、ここからさまざまな議論を展開していくことが平和への何よりの手段になる。映画を観て、ただ「よかった」「よくなかった」と言うだけでは何も始まらない。どこがよかったのか、どうあってほしかったのか、それはなぜかを話してこそこの映画の意義がある。

そもそも、原爆の様子や被爆者の姿を真にリアルに知ることはできない。白黒の写真なら広島や長崎の資料館で見ることができるが、そこから想像を膨らませて映像化することはそれ自体が暴力になりうる。どんなに精緻な映像でもわれわれはしょせん虚構しか味わえず、実態は知らない(二度と実態を知るようなことがあってはならない)。この映画はIMAXとかで映像の光や音響や振動をふんだんに使って、擬似的に爆風の衝撃を体験できるようになっていたけど、それがテーマパークのアトラクションみたいに「演出すげー!」と受け止められてしまうならやるせない。

むやみに長いだけの駄文を書いてしまったので論点があちこちに散らばってしまっているが、重要なのは「国家」と「人」を同一視しないことだと思う。「アメリカ」という国とそこで生活している人々は別で、個人は個人としてひとりひとりそれぞれ異なる意見を持っている存在としてみなさなければいけない。もしアメリカ人の多くが原爆の実情を知らないとしたら、それは個々のアメリカ人の怠慢ではなく、アメリカの国策としての教育の結果もたらされたものだと思う。だから(教育とかの)仕組み・大きな制度をどう作るかということが大事で、それを決定できる立場にいる人には相応の責任が求められる。映画「オッペンハイマー」はあくまでオッペンハイマー個人の物語として彼の視点に偏ったストーリーテリングをされていたが、それもなんだかなあと思う。彼の背景を知ったことで同情的な見方をする人が少なからず出てきてしまうのではとも思うし、原爆投下を彼個人の問題として矮小化するのではなくてもっと組織的な構造の問題を捉えるべきではとも思う。
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