デヒ

やがて海へと届くのデヒのネタバレレビュー・内容・結末

やがて海へと届く(2022年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

二人の友人の友情と愛の物語。それをめぐる2011年03月11日の東日本大震災による喪失と記憶。

雨が降った日、すみれ(浜辺美波)がまな(岸井ゆきの)の家に訪ねてきた日に、すみれは「まなの家にいると落ち着く」 「まるで海の底みたい」と言った。
=>2011年3月11日。津波によって帰って来れなくなったすみれ。まなは「帰って来ない」と表現している。

新しい婚約者ができたとのくんとすみれの母親はもうすみれのことは忘れて、これからを生きていこうとしている。すみれの話ばかりしているまなに「まなはその記憶に留まっていると思う。これからを生きていきたい」と言う。=>なんだかこの状況に違和感を感じた私は『ドライブ・マイ・カー』の「生き残った者は、死んだ者のことを考えつづける」というセリフを思い出した。生き残ったものたちは生きていくしかないが、去ったものたちを考え続ける必要がある。

すみれは愛のことを愛したのか?
人の気分は当事者しかわからない・
「すみれの気持ちはすみれにしかわからない」
この言葉に対して親友のまなも「そうだね」と言った。
しかし、まなと二人の空間ですみれは「私たちは世界の片面した見えていないと思うんだよね」と言った。これは、言い切らずに、「私を見て欲しい」というメッセージだったんじゃないのか?
どれだけ好きな人でも片面に過ぎない。
もう一つの片面を見ないといけない。
すみれはまなのことを恋して、愛していたが、まなにとってすみれは親友。友達以上の感情は気づいていない。

まなの働いているレストランの店長は自殺をする。
「僕が好きなのはなんだったのか」、「好きな曲をかけてご覧」という言葉。
好きなことを言葉として「好きだ」と言えるのか。
=>まながすみれの気持ちをわかった(気づいた)のはもう遅い。愛と友情は一寸の差にもかかわらず。



映画の後半部に海の近くで家族を亡くした人々にインタビューする場面がある。その当時の記憶を語るが、生々しく伝わってきて辛かった。
私のことを言うと、韓国人である私は当時に日本にいなかったためどんな被害も受けてなかった。なので、当事者の悲しみと苦しさを計り知れないだろう。きっかけは違っても私も「喪失」自体は経験したことがあるから悲しみの感情は伝わってくるが、「経験してないものが何を言うんだ?」と言われたら何も答えられることがない。でも、少しでも力になりたい。知らないからこそ向き合いたい。話を聞きたい。そんな意味でこの映画と出会ったことはとても良かったと思う。

私は小学3年の時に、プールで溺れて死にそうだったときがある。なので、今も海やプールの中に入ることが怖い。
現在私は地殻変動の多い国である日本に住んでいる。2011年3月11日には大きい津波で最悪な人命被害を残した。
「海」と「山」の中でどっちがいい? というナンセンス・クイズ.がある。私はいつも「海」を選ぶ。入るのは怖いけど美しく未知の空間、広くてからっとする。私にとって海は3つの意味を持つ。
① 自由の空間
区域関係なく自由に循環する水。海に入ることで外部の葛藤や偏見から抜け出し、自由の意味を持つことになると信じている。歴史と政治、文化などで日本と私の母国である韓国は近くても遠い国である。今映画大に在学している私にとって企画書と脚本とわず「海」が言及されている。
② 別れの空間
過去には人が死んだら火葬した灰皿を海に流した。これは1の意味も持っているが、流すことでこの世との永遠の安寧、別れを意味している。そして、日本の2011年3月11日の地震による津波、韓国の2014年4月16日のセウォル号沈没事件、その他にも多くの海上から、あるいは海によって帰って来れなくなった人々、生き残った人々との別れ、涙。これらの惨事を忘れてはならないと思う。この世では別れであっても、心の中に記憶の中に息をしながら生きている。
③ 恐怖と未知の空間
2との関係性もあるが、終わりが知らないからこそ神秘的でありながら恐怖である。水泳ができない私にとっては安全装備なしでは絶対に入れない。恐怖そのもので死。
海は心が落ち着く場所でありながらも様々な影響を与えてくれる場所である。だから海の出る映画が好きで、作りたい。
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