真一

カッコーの巣の上での真一のレビュー・感想・評価

カッコーの巣の上で(1975年製作の映画)
4.7
 たまげた。看護長の権力に服従し、精神病院の檻の中に安住する入院患者たちは、国家や企業に飼い慣らされている私たち自身の姿ではないか。3周して改めて思う。時代を超えた、とんでもない傑作だ。

 権力は被支配者に笑顔を見せる。被支配者が秩序に従順である限りー。
 
 舞台はアメリカの精神病院。笑顔で病棟を取り仕切る看護婦長の下に、あらゆる指図を嫌うチャランポラン男のマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)が送られてくる。暴力事件を起こしたマクマーフィーは、刑務所生活を免れるために心の病を装い、狙い通り入院できたのだ。

  勝手気ままなマクマーフィーの出現で、病院内の秩序(体制)が揺らぎ出し、婦長の顔から笑顔が消える。「ワールドシリーズを見せろ!」と楯突くマクマーフィー。要望を拒絶し、権力の前でマクマーフィーを膝まづかせようとする看護長。二人のバトルは他の患者を巻き込み、エスカレートしていく。

 最大の見所は、秩序に抗うマクマーフィーの登場によって、他の患者たちの心にも主張や要求が芽生えてくるくだりだ。病院から与えられたものだけを受け入れ、秩序に心地よささえ感じながら生きてきた彼らに、彼自身を閉じ込めている見えざる檻が見えるようになり、自由を求めるマクマーフィーと共闘したいという思いが沸き上がってくるのだ。

 その極みが、ネイティブ・アメリカン(インディアン)の巨漢、チーフ(ウィル・サンプソン)の変化だ。耳が聞こえず、言葉もしゃべれないはずのチーフが、マクマーフィーからフルーツガムをもらった際、ぼそっと「サンキュー」とつぶやく。耳が不自由であるかのように装ってチーフが、マクマーフィーに心を許したのだ。胸に突き刺さるシーンだった。

 ネイティブ・アメリカンに対する差別と虐待は、民主主義のリーダーを自認するアメリカの黒歴史だ。チーフが「外の世界」で差別を受けて生きる気力を失い、生きた屍になろうと精神病院の門をくぐったのは、想像に難くない。だがマクマーフィーとの出会いを通じ、再び自由を求めて体制に抗おうと決意するチーフ。抑圧から自らを解き放ち、人間の尊厳、ヒューマニズムを取り戻すことこそ私たちが生きる道なのだと、本作はマクマーフィーとチーフの生きざまを通じ、語りかけてくる。

 また本作品は、マクマーフィーが逃亡に失敗し、ロボトミー手術に追い込まれる場面を入れることで、被支配者の抵抗に逆ギレした権力の恐ろしさ、卑劣さを浮き彫りにしている。国家であれ、企業であれ、病院組織であれ、そこに存在する権力の性質に大きな違いはない。権力は往々にして傲慢で、狂気に満ちている。

 象徴的なシーンが、婦長がワールドシリーズのテレビ観戦を求める採決を否決したシーンだと思う。婦長は、少し遅れて「見たい」に挙手したチーフの一票を無効とし、過半数に届かなかったと結論付けた。多数決で民主主義を装いつつ「民意」を操作したのだ。この場面を観て、巨大与党に国会を牛耳られ青色吐息のわが国の民主主義を連想したのは、自分一人だけではないと思う。

 マクマーフィー亡き後、チーフは病院の壁をぶち壊し、自由を求めて果てしなき荒野へと旅立った。その他の患者たちは、チーフの脱出劇に歓声を挙げながらも、威厳と面子を取り戻した権力者の下、檻の中に安住する道を選んだ。この作品は、私たちに対し「どちらの道を選ぶのか」と尋ねているような気がする。あまりに重い問いかけだ。

 作品の中には一部、民族差別的な言い回しや、女性蔑視と受け取れるくだりもあった。かなり深刻なレベルなものもある。ただこの映画は、50年前の作品だ。メッセージがヒューマニズムにあることも疑いはない。自分としては歴史的名作と呼んで差し支えないと思う。
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