sakura

ウーマン・トーキング 私たちの選択のsakuraのレビュー・感想・評価

4.3
6/5に1回目、本日2回目。

予告を観ていたとき、一番右に描かれた3つ目の選択肢「leave」は、その馬の後ろ姿ゆえか一番やるせない選択肢に思えていた。

二度観終えた今、なぜ自分がそう思っていたのかを考えると、「被害に遭った女たち」のことしか考えていなかったからだと思った。
「加害者としての男」対「被害者としての女」としてしか、彼女たちのことを捉えられていなかった。

実際彼女たちの立場になってみると、自分の恋人や息子はそんなことをしない、性犯罪者と一括りにすることなんてできないっていう気持ちになって当然で、
でもじゃあこのままでいいのかと言ったらそれはもちろんだめで、そこがスタート地点だったんだなと観てから感じる。

非常に難しい立場と役どころであるマリチェを演じたジェシー・バックリーが「(映画で描かれる既存の価値観は)男女共に教育で教え込まれたことであり、共同体の上層部がその立場を保持できるように流布している教義でもあります。」と語っていて、
なんだか、今の日本について言われているみたいだ、と思う。
この映画を観て、こんなに最近の話だなんてとか言っている場合ではない。

彼女たちが向き合っていたのは、男ではなくて社会、仕組み、システムだった。


彼女たちは性被害を受け続けてきたというだけではなく、無学であるという害も被っている。
「これは文字で、これはなに?」と問うオーナ、オーナが皆に方角を知る方法を伝えるシーン、人から学びの機会を奪うということの罪の大きさを突きつけられる。
これまたタイムリーなニュースと重ね合わせてしまうのだけど、日本の奨学金の問題だって実質同じようなものだ。

学ぶ機会を与えられないこと、性被害に聞く耳を持たないこと。
彼女たちのコミュニティとわたしの今いる世界が、まったく地続きであることを考えると彼女たち以上に自分たちの生きる世界のほうがどん詰まりであることに気づいてしまってしんどい。

彼女たちは文字の読み書きすらできないのに、話し合うことができる。
今のわたしたちにできるだろうか。

生理や出産など女性しか経験しないことでも経験したがゆえに「わたしのときはこうだった」と理解を示せないことが、女性のあげる声に賛同した男性を「当事者じゃないとわからない」と当事者の暴力を奮って分断してしまうことが、なくはないだろうか。
わたしたちはどうして話し合う手段を失ってしまったんだろうと思うと、自分で抱いた疑問ながら、そのスケールの大きさに途方に暮れる。

だから、作中の
“重荷を押し付けあっても
傷つきは変わらない”という言葉が刺さった。

わたしたちが抱える荷はあまりに重くて、だれかに、ときには傷ついた者同士で押し付けあいたくなってしまう。
けれど、それが傷を癒さないだけでなく、新たな傷を生まないことに全く役立たないことも、本当はわかっているはずなのだから、忘れずにいたい。
sakura

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