カフカの映画化にしては整理されすぎてる(カメラも横移動が多くて、ひたすら平面と室内のバリエーション)し、トリアー監督『ドッグヴィル』的な、機械的な物語の単調さが強まってる(とはいえ、トリアー監督より先>>続きを読む
「言葉」(父親の認知障害や言葉遊びゲーム)の機能不全が映画全体を貫いてる。レア・セドゥの表情は、泣きそうな一歩前を耐えてる。
たしかに微妙な映画やった……死の不安に溢れてる現代社会の寓意映画(ホラー・パニック・サスペンス・コメディと横断的ではあるが効いてない)やけど、絶妙にマヌケた家族(親と子の繋がりに対するバームバック監督>>続きを読む
監督の過去作「歩道橋は消えた」が、今にして回顧される。このアクロバティックな時間感覚、ただこれだけで胸が詰まる。そこに香港の(過去)がスッと入り込む。
一定のリズムを持った「私的ヒストリー(ホームビデオ)」の挿入と、バライエティのある街ドキュのコラージュ作品。作家性・観察性が両方強くて、奇妙な感覚になる。
映画監督の妻が「一緒に住んでる者です」って言うの、ブラックユーモアが効きすぎてて笑えない。
マジで全然違うけど、クロード・シモンの小説『路面電車』を思い出した。
東独って舞台からサスペンスフルなメロドラマなのかの思ってたし、間違ってないけど、ペッツォルト映画のなかでは最も「映画」的な作品じゃないか。ある意味じゃ「ゴダール」的と言えなくもない。正直これは意外だっ>>続きを読む
ペッツォルト映画の中で一番面白かったし、珍しく良い終わり方。ペッツォルト版『マリア・ブラウン』。結局は、裏切りの真偽や夫の愛情が明らかになりきらない感じは、やっぱペッツォルトやけど。
事故で子供を轢いてしまう男と、轢かれた子供の母親とのメロドラマっていう、ペッツォルト感の強い映画のわりには、凡庸の域に留まっている。執拗なほど自動車を撮ってるし、なんなら少し頼り過ぎな気もする。
とても丁寧かつ大胆な映画。
映画冒頭から「落ちる」のを運命づけられてる自動車が、案の定「落ちる」のは気持ちいい。ペッツォルト監督は、自動車こそ、物語を進める機械だと思ってそう(『Wolfsburg』>>続きを読む
冒頭から「これはSNS上の切り取られた現実の映画だ」とか「レズビアンの映画だ」とか布告するようなカット。
根本的には『ジャンヌ・ディエルマン』だと思う。反復と差異が巧妙に設計されてる(カメラの位置>>続きを読む