ShotaOkuboさんの映画レビュー・感想・評価 - 4ページ目

ShotaOkubo

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不安は魂を食いつくす/不安と魂(1974年製作の映画)

5.0

ファスビンダーは、演劇と映画の交配によって、生み出された混血種の作家である。彼は映画の中に演劇的な性格を融解させようとはせず、カメラの持つ可能性によって、むしろ演劇的な構造や、そこから生じる心理的な効>>続きを読む

サントメール ある被告(2022年製作の映画)

4.8

この映画はドキュメンタリーの作られ方をした劇映画である。テクスト(法定記録)に運動と感情が乗せられた画面には、作り手の主観的な思考の痕跡は殆ど残されておらず「仮借のない吟味の機械(カメラ)」が会話と彼>>続きを読む

インディ・ジョーンズと運命のダイヤル(2023年製作の映画)

4.0

言うまでもなく、この映画の主題論的な統一は、インディ・ジョーンズの老いによって維持されている。それは映像の枠内における各種要素(俳優、大道具、セット、空間)に演出されている。映画という時間体験の中で一>>続きを読む

Pearl パール(2022年製作の映画)

4.8

このシリアルキラーの映画には、安堵感がある。それは、どこかで自身の中にあった何かに似ているのではないかという安堵感だ。この映画にはシリアルキラーに安心を見出す驚きがあり、それが不思議な世界の表象性を支>>続きを読む

スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース(2023年製作の映画)

5.0

この映画との出会いを僥倖たらしめるものは何か。それは「細部が見せる一種の色気」と「安心」である。色気とは、存在の気配である。存在している物の影が描かれている以上の何かを見ている者に語り掛けるということ>>続きを読む

CLOSE/クロース(2022年製作の映画)

4.8

人物が疾走すれば、画面も疾走する。人物が階段を駆け昇れば、それに応じて画面の視野も拡大される。人物が並ぶと、画面は人物たちの関係性を示す。人物が遠方に立つと、画面は第三者の介入を許す。人物が背中を見せ>>続きを読む

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)

5.0

この映画は宮崎駿による「8 1/2」であり「ホーリー・モーターズ」である。これは如何にして作家の内面─記憶だの、意識だの、心理だの、悩みだの─を視覚化するかという問いに他ならない。つまり、この映画にお>>続きを読む

大いなる自由(2021年製作の映画)

4.6

この映画は、少ない言葉と身体、刑務所にある必要最低限の道具を使って、受け手のエモーションを刺激する。手巻き煙草、根本まで燃えるマッチ、青い囚人服、灰と唾と針、聖書は、この映画作家が触るか触らないうちに>>続きを読む

RRR(2022年製作の映画)

4.4

映画にとって重要なのは、それが飽くまで「存在」であるかに見える紛い物でしかない、ということである。そして、その紛い物を目にすることの「現実」性こそが問われねばならない。この映画に映っている現実は、男た>>続きを読む

ペトラ・フォン・カントの苦い涙(1972年製作の映画)

4.0

ファスビンダーは、演劇と映画の交配によって、生み出された混血種の作家である。彼の演劇的な映画は「動きを止めること」によって、その主題論的な統一が維持されている。この映画において、人間の身体が不動から動>>続きを読む

苦い涙(2022年製作の映画)

4.6

今日、映画的記憶を欠いた映画は存在しない。独創的な作家と思われる人から凡庸な作家と見做されている人に至るまで、あらゆるシネアストは、意図的であると否とに関わらず、映画自身を反復(引用、或いは翻案)する>>続きを読む

aftersun/アフターサン(2022年製作の映画)

4.6

この映画の作り手には、物語の通俗性を超えたショットを撮る力と卓抜な編集の力が具わっている。この映画が見る者を魅了し尽くすのは、物語の水準においてではない。それを語るに費やされるショットの連鎖においてで>>続きを読む

Rodeo ロデオ(2022年製作の映画)

4.4

映画におけるバイクは「機械仕掛けの馬」であり、映画における馬の決定的な優位の一つは、その直線的な疾走にある。それのみか、人間が跨り、手綱を引くことによって、その直線的な運動を意のままに操作してみせるこ>>続きを読む

アシスタント(2019年製作の映画)

4.6

この映画において(或いは、現実においても)多くを語ることが許されていない彼女は、内的な事態を反映するかのように身体を運動させる。だから、受け手に響く。この身体の動かし方はシャンタル・アケルマンの「ジャ>>続きを読む

怪物(2023年製作の映画)

5.0

現実に起こり得る(或いは、起きている)世の中の混乱を止揚し、鋭く洞察しているのは、紛れもなく明らかな映画的な性格である。正しくない世界を振り切ろうとして内にある感情を残らず発散させながら走る姿は、モー>>続きを読む

マリとユリ(1977年製作の映画)

4.4

この映画は隠蔽された葛藤を顕在化せしめ、発信者と受信者の距離を零に還元し、その差異を廃棄する。この映画において、彼女が語る「個人」は、社会に抑圧される女性たちの代名詞たり得るのだ。

アダプション/ある母と娘の記録(1975年製作の映画)

4.4

政治的背景や父権主義は、視線の映画を生む。この瞳の運動は、誰にでも許された単純な運動であるが、沈黙を強いられた者たちにとっては特権的な表現の一つである。東側諸国に生まれた女性としてのメーサーロシュが視>>続きを読む

ドント・クライ プリティ・ガールズ!(1970年製作の映画)

3.6

この映画におけるメーサーロシュの分身は、彼女自身に等しく、まだ猫を被っているが、その作家性を隠しはしない。彼女は個人を取り巻く不当な世界を撮る。寄る辺なさを撮る。眼差しを撮る。

ナイン・マンス(1976年製作の映画)

5.0

この映画に映っているものは、既にトリュフォーが撮っている。彼は彼女よりも先に自らの分身を撮った。個人を取り巻く不当な世界を撮った。寄る辺なさを撮った。眼差しを撮った。しかし、この映画には彼女にだけ許さ>>続きを読む

ふたりの女、ひとつの宿命(1980年製作の映画)

4.8

メーサーロシュは家族未満の共同体に纏わる物語を変奏する作家である。それは彼女の明らかな刻印として「アダプション/ある母と娘の記録」「ナインマンス」「マリとユリ」にも深く打たれている。つまり、彼女は全て>>続きを読む

EO イーオー(2022年製作の映画)

5.0

そのロバは、人の言葉を発することこそしないが、その顔には人を洞察する目がある。その目には純粋さ、静けさ、平穏さ、聖性がある。この映画は、そういったロバの目を借りて、言い換えれば、映画にしか達成し得ない>>続きを読む

TAR/ター(2022年製作の映画)

5.0

この映画は、映画の性格を利用して、権力を語る映画である。映画における権力者は、作り手に他ならない。映画の作り手は、受け手の視覚と聴覚を意のままにして、受け手の時間意識を支配する権力を持つ。この権力構造>>続きを読む

THE FIRST SLAM DUNK(2022年製作の映画)

4.4

受け手は漫画映画が現実でないことを前以て承知している。それ故、それが現実と如何に似ているかではなく、如何に現実離れしているかに期待する。この漫画映画にあっては、二次元の漫画が三次元の空間を運動している>>続きを読む

アダマン号に乗って(2022年製作の映画)

4.6

このドキュメンタリーは、受け手に観察しながら想像するという体験を与えてくれる。そこに作り手の主観的な思考の痕跡は残されておらず「仮借のない吟味の機械(カメラ)」が思い思いの会話と彼らの内的な事態を反映>>続きを読む

若き仕立屋の恋 Long version(2004年製作の映画)

5.0

この映画は受け手の耳に働き掛けてくる。耳で見る映画である。時にサウンドはイメージよりも独創性的である。サウンドは受け手の耳から侵入し、脳に届き、イメージを起こす。この映画を通して、映画におけるサウンド>>続きを読む

聖地には蜘蛛が巣を張る(2022年製作の映画)

4.2

この映画はドキュメンタリーのような性格をしている。連続殺人鬼、被害者、その家族たち、大衆、ジャーナリスト、あらゆる人たちの目を借りて、宗教を核とする様々な矛盾を表出させる。この表出した矛盾が作り手の眼>>続きを読む

エンパイア・オブ・ライト(2022年製作の映画)

4.4

映画には現実の混乱を止揚し、個人の状況や心情を要約してくれる機能が具わっている。それ故に受け手は映画を自らの人生の洞察として理解し、カタルシスを覚える。複雑な出来事の渦中にある者に代わり、映画が観察と>>続きを読む

午前4時にパリの夜は明ける(2022年製作の映画)

4.4

この映画にはロメールの面影がある。この映画は言葉を「聞かせる」のではなく「見せる」。何等かの言葉を交わす人々を「見せる」。日常的に使い回され、使い古された言葉こそ、然るべき場所に置かれると、ふと途方も>>続きを読む

ザ・ホエール(2022年製作の映画)

4.6

この映画が受け手の注意を引くのは、ブレンダン・フレイザーの運動による。その余りの巨体が故に彼が運動する姿は一種の希少性を含んでいる。彼に余程の感情が起こらない限り、受け手は彼の運動を見ることは叶わない>>続きを読む

トリとロキタ(2022年製作の映画)

4.4

この映画の舞台はベルギーのリエージュに留まっているが、実の所、この世界を遍く端的に示している。この映画は世界にとっての現実なのだ。弱い者は弱い者を利用するか、同じく弱い者と身を寄せ合う。ただし、この世>>続きを読む

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(2022年製作の映画)

5.0

元来、映画は時間芸術としての一軸的な直線性を具えている。この映画は、そういった映画の性質を前提にして、それを放射状に散乱させるマルチバースの試みである。この試みが映画の原理原則を無視するものであっても>>続きを読む

ベネデッタ(2021年製作の映画)

4.8

この映画には「当人にとっての現実(としての幻想)と客観的な事実の衝突」を変奏する映画作家の刻印が打たれている。この刻印を更に深いものとしているのは、この映画作家の特権たる即物的な表現である。この映画は>>続きを読む

ボーンズ アンド オール(2022年製作の映画)

3.8

この映画における恋愛とは、完全な他者と同一化する願望であり、その同一化はカニバリズムによって達成される。

逆転のトライアングル(2022年製作の映画)

4.8

これは現代社会の階層的な権力構造を転覆させる試みである。この映画は明らかに創作的な性格が現実の混沌を鋭く洞察し、我々に現代的な権力構造の本質や正当性を再考することを要求してくる。

ヨーヨー(1965年製作の映画)

5.0

この映画にはピエール・エテックスの刻印があるばかりか、ヌーヴェルヴァーグの精神までもがある。輝かしいサイレントとトーキーの後ろ影を追おうとする試みをして、彼の最高傑作と言わしめるのである。

絶好調(1965年製作の映画)

3.8

誰もが経験しているはずの取るに足らないことでさえ、彼が運動(パントマイム)として描き直すことによって、受け手は感情を動かされてしまう。