泣き方を忘れた男たち。堪らず溢れ出たその涙が、ほかの者の心へと波及する。
マッチョイズムや家父長制のなかに、さざなみが立つ。男と女に、子どもと大人。そんなもの、一縷の涙で転覆させてあげましょう。
風の動きを画面に刻む。なびく髪の毛やくるくる回る風車など、こうした繊細な、しかしそれでいて雄壮な自然の動きが、この映画の一翼を担う。
また屋内におけるクロースアップの閉塞感も、カタルシスの風来を予感>>続きを読む
なにしろゴッホのような故人が希代のアーティストになれてしまうのだ。アートは、死者であれ生者であれ、どんな人間に対しても門戸を開くに違いない。日陰者たちの取るにたらない人生が、こうして一本の映画になって>>続きを読む
オリエンタリズムと女性。ヨーロッパ中心主義、すなわち白人男性から見た「女」たち。
とくに日本人女性の気味悪さといったら。何を考えているのか、さっぱりわからない。
カーセックスという言葉があるように、自動車が家庭に代わる愛の巣となったのは1920年代のことだった。新たな恋愛観が、保守的な家族観を揺るがす。これが同時代の特徴だったとすれば、本作における一軒家の佇ま>>続きを読む
ジョン・ヒューズから批評的距離をとるティーン映画のひとつ。
デートレイプを決して爽やかに描こうとはせず、痛々しい蒼さを際立たせる。少女であり被害者。
職場から、逃げ出したり、追い出されたり。レオ青年のポンコツぶりには親近感をおぼえる。お局様にいびられる感じとかも、うん、わかる。
せっかく社会に馴染めないんだから、そのまま自分の人生のうちに幸せを求>>続きを読む
このレビューはネタバレを含みます
同時代のハリウッド映画の主人公は、あやまちを犯すことはない。まちがいを犯したとしても、エンディングまでには反省するのが常だった。
しかし、この『自転車泥棒』もといこの父親に、デ・シーカは反省の余地を>>続きを読む
都市(後景)がたちまち、主役(前景)になる。
だから、透けるというより、溶けてゆく。ネットワーク、電子網の大海に。情報の素子(そし)となって。
プレイリストのように連続再生される劇伴、斬新なフレーミングによる場面転換、スタイリッシュな語り口が冴えわたる。
あと、ポートレートを用いた演出の妙。これも忘れがたい。
人目を盗んでの犯行は、貧苦の賜物か、はたまた端から見向きもされていないだけなのか。
答えにつまる。でも、気づいてほしい、見つけてほしい。そんな声なき弱者のSOS。
『大人は判ってくれない』で波が不良少年を陸へと押し返してゆくように、森がこの野生児を人間社会へと追い払う。あてどなく社会を漂流しつづけるこの少年たちは、発達障害のきらいがあるトリュフォー自身の似姿だろ>>続きを読む
ある女性の「ものがたり」。
彼女の下品な言葉づかいで語られるその男性遍歴は、教授の科学的な語彙力によって論考され、さらには観客(より正確を期すなら聴衆)の性的な想像力を介して「あばずれ」「悪女」の話>>続きを読む
自転車がもたらす小運動は、風光明媚なフランスを水平に流しながら、サドルに跨るベルナデット・ラフォンの脚線美を垂直に伸ばしてゆく。
この程よい運動量のおかげで、ぼくも腰を据えてこの情景を望むことができ>>続きを読む
原作における「斜形」なコマ割りは、そのなかの登場人物(=スタンド)の身体(=精神)を捻じ曲げる(「ジョジョ立ち」させるとも)。
こと第4部に関していえば、室内戦闘が主なので、コマと登場人物のあいだに>>続きを読む
生の源流は、海からつづく。すべての生物は太古、海水のなかで産声をあげた。
その一部である人間が、海を見て安らぎを感じるのは、それこれ自然の摂理なのだといっていいかもしれない。
階段は、空間において中間に属する。
このどっちつかずな舞台装置は、そのため、それだけで映画を宙吊りにするし、そしてそれを見る観客をもハラハラさせる。ゆっくり登ったり、足早に降りたりとそのヴァリエーシ>>続きを読む
移り気な姉妹の心情を、海や河といった流動的なイメージが代弁する。そのような意味において、たしかに彼女たちは「自然」といえる。
嘔吐、落涙、出血。母なる大地からほとばしりでるこの体液は、愛の流露にほか>>続きを読む
手のひらで転がる死を握りしめ、男はこの社会秩序からの逸脱を決意する。
ブレッソンのこうした提喩法は、やはり凄まじい。『たぶん悪魔が』同様、手のなかに、人生や世界といった壮大かつ深甚なスケールを収めて>>続きを読む
愛の宣教師たるヒロインはいう。いわく、「愛はわたしの宗教」なのだと。
ヨーロッパによる植民地支配がキリスト教化のもと推し進められた時代。宗主国の軍人が、独りの女から改心を迫られつづけるという皮肉。
死が、生き生きとして真に迫ってくる。まさに命懸けの冒険。
猥談や度胸試しは、ホモソーシャリティの参加条件であり、これらをクリアすることで、子どもたちは一人前の男として互いを認め合う。
加藤幹郎は「ジョーン・フォンテインは顔の女優である」(『映画のメロドラマ的想像力』36)と喝破する。
たしかに、彼女の顔のクロースアップは素晴らしく、瞳に湛える涙がまるで宝石のように輝いていた。
"smile more" 女はニコニコ愛想を振りまいとけばいい。
このような言説が、たとえば『キャプテン・マーベル』(2019)を巡って交わされたことは記憶に新しいし、また同様にスーパーヒーローに限>>続きを読む
道行く人に興味・関心が向かえば、それだけでサスペンスフルな追跡劇が駆動する。男女の出会いもそう。キャメラが群衆の一人をフォーカスすると、たちまち彼女は主要人物に繰り上がる。そこに物語上の必然性なんてな>>続きを読む
「熊本に帰りたいから運賃700円ちょうだい」。こう話しかけられたのは、名古屋のある映画館前でのことでした。みすぼらしい格好をしたその男に「いや、絶対嘘やん」と内心ツッコミをいれつつもお金を手渡し、挙句>>続きを読む
え、ぜんぜん緑じゃない。これがオリジナル版を見たときの率直な感想だった。DVDで流通しているものは、緑の潤色が施されている。つまり、それほど劇場版の色調は寝ぼけ色だったということ。
しかし、にもかか>>続きを読む
元ネタの映画作品はコレ!みたいな前情報を入れてしまったせいで、もうその作品の落とし子にしか見えず……。後半に待ち受けている転調も、そのため予想の範疇を越えることはなく……。うーん、やるせない😭
一応>>続きを読む
『ジョーカー』(2019)のような作品などとやっていることは本質的に同じ。
結局のところ、英雄と道化は紙一重の関係にある。ヴィランの別名、スーパーヒーロー。この両義性をカジュアルに描く。
子どもを容赦なく殺そうとする大人。この基本的な骨格はジョン・ワッツ作品全般に通底する。
ほかにも頻出するモチーフをあげるとすれば、回転灯もそのひとつ。青と赤のコントラストを導入するパトランプ的な照明>>続きを読む
サム・ライミしかり、ジェームズ・ガンしかりMarvel映画の作り手たちはホラー映画を経由する。ちなみにDCだとザック・スナイダーとかも。
モンスターとヒーロー。その両方が、超人で異形。
同年の『ハルク』(2003)が、映画でもなければコミックともいえない、なんとも中途半端なアダプテーションだと批判されいるのを横目に、本作は両メディアの特性を精妙に同居させ、それぞれのストーリーテリング>>続きを読む
無修正で描かれるチンポは、社会に向けられた矛先であると同時に、自分自身への返す刀にもなっている。自分の恥部や弱さを差し出してこそ、つまり相応の代償を払うことではじめて、表現は説得力をもってくる。
実>>続きを読む
マスクの有無が、日常と非日常を並走させる。登場人物がマスクを付けていないだけで、どうも彼らが現代日本の時空間から半歩遊離しているような異国の住人に見えてしまう(マスクをしたエキストラたちと並ぶと尚更変>>続きを読む
『シーバース』(1975)を思いだす。男と女はもはや対立する二項ではなく、すべての生き物は肉塊へと還ろうとする。そこに美醜や親子なんてものもない。
黒人の歴史は、口頭伝承で紡がれる。なぜなら奴隷に文字は書けないから。
もちろん、そうした歴史は眉唾物で、さながら都市伝説のように、その話には尾ひれが付けられてきたのかもしれない。しかし反面、まさにア>>続きを読む
ホワイトウォッシングは百歩譲ってしょうがないとして、しかし、その白人に「美しい」という言葉をいたずらに使わせるのはあまり感心できない。
それはつまり裏を返せば、他のなにかを「美しくない」と暗に言って>>続きを読む