法からの逸脱が皮肉にも、自由の謳歌に見えてしまう。
逃避行という自分探しの旅。その行く末は、明るいようでほの昏い。
大豪邸とはいえ閉塞的な室内が舞台だと、恐竜のスペクタクルもそれに併せて矮小化されている感は否めない。せっかくの暴れっぷりも、いまいち迫力にかける。
ただ、恐竜で『吸血鬼ノスフェラトゥ』的な恐怖演出を>>続きを読む
サスペンスを同時多発的に生じさせ、輻輳させていく大胆不敵な作劇法。これだけでも十分見応えがあって、おもしろいのだけど、男女のまなざしをテーマにしているところも個人的にはツボだった。
女泣かせのアラン>>続きを読む
脚本した『タクシー・ドライバー』とやっていることは本質的に同じ。聖と俗とが溶け込みあった実社会。それを浄化せんとする聖職者。そこにドライヤーやタルコフスキーらの要素が肉付けされる。
運動軌跡を予測しがたい野鳥を、行動原理を理解しがたい先住民を、shootする。
写真銃。この発明なくして、映画の登場は望めない。
『マルホランド・ドライブ』に霊感を与えたカルトムービー。
陽の当たり方次第で、また違った表情を覗かせる、魂が抜けたような、空虚な情景。
弁証法的に人間とモノを衝突させる。文字どおり、カークラッシュで。
そうした破壊と再構築のプロセスによって、立ち上がってくる多種多様な生=性は、二項対立図式でしか物事を理解しようとしない人々を置き去り>>続きを読む
偶然や他者をいかに飼い慣らすかが、映画にとっての試金石であり、醍醐味でもある。本作のように動物に振り回され、すべてが瞬く間に破綻してしまうのもまた一興だろう。
とはいえ本作も最終的には、秩序だったシ>>続きを読む
肩なめのショット内で繰り広げられる、ファム・ファタールとの駆け引きが秀逸。
相手に顔を覆い隠されまいと一進一退する攻防は、力関係の推移をいみじくも視覚化する。そして、画面の上で分かち難く結ばれた2人>>続きを読む
このレビューはネタバレを含みます
映画が始まって90分のところで、ヒロインを襲う危機はとりあえずの終息をみせる。本来ならここで終わってもよさそうなところに、綴られるのが30分近くのエピローグ。
ある意味で、取ってつけたようなラストに>>続きを読む
ノーマン・ベイツを思わせる母=息子の構造。男と女の線引きを揺るがし、殺人鬼のPOVによって、見る主体と見られる客体のパワーバランスさえも攪乱させる。
動物の予測不可能なモーションに翻弄されるカメラ。次の瞬間に何が起こるかわからない緊張感で、目が離せなくなる。
しかし、こうした求心力で興味が持続したのは、あくまで序盤まで。豚のエモーションを知覚でき>>続きを読む
ヒロインの振る舞いを自傷行為、あるいは疑似出産としても読み取れてしまうところに、女性としての心の葛藤が凝縮されている。
余談だけど町山智浩が、本作を聖母マリアの処女懐胎に準えて解説していた。たしかに>>続きを読む
己の横暴さを思い知る。この自由闊達な映画に物語を求めては意味を見出そうする、その一方的な態度こそ、独断専行にほかならないのでは。
いうならば、理解されることで生じる拘束力。そうした観客の手を逃れてや>>続きを読む
塹壕は、カメラの動きに制限を与える。であれば、本作の滑らかなカメラワークは革新的だったに違いない。
ステディカムを導入するさらに前から、キューブリックはその卓抜した移動撮影の片鱗をのぞかせる。
粒ぞろいの怪奇譚。とくに腹話術士の話が面白かった。二重人格的な演出が、『サイコ』に引き継がれているらしい。
あと、ダッチアングルで撮られた不安定な世界観が記憶に残っている。
観客席から思わず身を乗り出したときだった。カメラも躍動し、画面全体が色めきだつ。映画が、大きく動き出す気がした。
YouTubeにおける「海外の反応」や「ホラー実況」みたいな、いわゆるリアクションの共有という今日的な視覚体験の楽しみを、この映画にも見いだせそう。
メディアの権力作用を看破し、リテラシーを培う必要性を説くが、肝心の主人公の行動はいささか急進的でもある(げんにネオナチの間では本作がミームとして流用されているんだとか)。
とはいえ、ノーム・チョムス>>続きを読む
『トイ・ストーリー2』を連想した。男の子の名前が両方ともアンディだったり、大量生産がテーマだったり、ベルトコンベアでの戦いだったりと共通点が多いような。
事実、人形ホラー映画の文脈でトイ・ストーリー>>続きを読む
同じ画面にいるのに、ピント送りが2人を前景と後景にかけ隔ててしまう。近いようで近くない。その距離感がもどかしくもあり、愛おしくもある。
ブニュエルのブルジョワ批判から思い出されるのは、エイゼンシュテインのそれだった。彼もまたグリフィスの編集を二項対立的であるとし、その根底あるブルジョワ的な倫理観を批判した。
同様に本作も、古典的ハリ>>続きを読む
舞台挨拶つきでの鑑賞。主演の平野鈴さん曰く、最初と最後の電車のシーンは、ゲリラ撮影なんですって!いや、驚き。
これを聞くと、ラストの演出がより一層愛おしく思えるな〜。人目を憚らないゲリラ撮影の勢いそ>>続きを読む
顔のクロースアップしかり、内面に入り込むような顔へのズームインしかり、女性の抑圧された本音が、ドヌーヴの顔を迂回していみじくも視聴覚化される。
とくに顔へのズームは、夢(内面)の表象の合図になる。こ>>続きを読む
これを社会一般では、画一的ではなく理想的、忙殺されたではなく充実した、「人生」と言うらしい。
いやいや、息苦しすぎる。それなら羽目を外して、狂うように、暴れ踊りたい。カメラはそれを遠目から冷ややかに>>続きを読む
自己充足としてのセックス。それに淫売という言葉は似つかわしくない。しかし悲しいかな、それでもなお、気品や貞淑といった社会規範が、彼女を緊縛することをやめてくれない。
また、映画の掉尾、反復されるベラ>>続きを読む
乾いた画面だからこそ、いくつもの運動が瑞々しく映える。
馬や列車という最高の被写体。去年見たので内容はほとんど忘れてるけど、映像は鮮明に覚えている。まさに原初的な映画体験。
なるほど。気に食わなければ、観客もこの映画を巻き戻せばいい(結末に2度目のオープニングタイトルがくる気配りすらある)。
観客は、椅子の上からやるせなく見守ることしかできない父親とは違う。むしろ物語世>>続きを読む
「神」は恣意的な概念に他ならない。しかもその解釈を巡って、信者が争う始末である。
ブニュエルは、こうした一貫性のなさを悪様に告発する。空間の連続性を欠いたちぐはぐの編集に違和感を覚えたのなら、なぜ、>>続きを読む
『シェルブールの雨傘』と、音楽および美術が同じとはいえ、そこはゴダール。同ジャンル映画を作るにしても、その仕上がりは一味違うものになっている。
たとえば色彩戦略の違い。レンズフレアを積極的に取り入れ>>続きを読む
表皮は、自他の間に引かれるひとつの境界線。その境を異物が否応なしに出入りする。崩れ始める輪郭線。内にあった所有物が、しだいに外へと開かれていく。
はてさて、ほとばしる鮮血や血を分けた息子、これらはい>>続きを読む
ディープ・フォーカスの徹底。画面の手前から奥まで、ピントは平等に合い続ける。これにより画面上での序列は消失し、女と事物が等値なものとして描かれる。だから生足とブーツは同じくらい、エロくなる。
でもよ>>続きを読む
HIPHOP最高。しかしフロウがいくら小気味よくても、映画は停滞したままでいる。編集のリズムは皆無。カメラも不動で、誰にも寄り添わない。
そして、こうしたカメラの冷酷さは、そのまま劇中の他者理解の不>>続きを読む
ドンキ、パチンコ、ラブホテル。アコム並びに飲食チェーン。闇夜に浮かぶネオンサインに誘われ、たどり着くは退廃と享楽。
日本の風景ってこんなにも貧しかったっけ。
「11月6日」水曜日、同時多発テロに見舞われる街。
これを逆さまに見たとき、見えてくる街の真の姿はなーんだ〈?〉