遊園地には、射的もあれば滑り台もある。そしてなによりメリーゴーラウンドがある。この円環運動が、追跡劇の決着を遅延させる。
さて、冒頭の遊園地を、映画という言葉に置き換えてみたい。要するに、本作は映画>>続きを読む
マジックの種明かしをするように、この映画は、映画の嘘を隠そうとしない。ほかのリヴェット作品でも言えるが、たとえば音響設計。音響のジャン・ヴィーネが、平然と劇中に出てきてピアノを弾いているにもかかわらず>>続きを読む
空飛ぶcamera-manトム・クルーズ(操縦席に固定されていては、アクションスターと言い難い)。
地上でトムを捉えた映像は、終始ぼやけて視界不良。それに対して、教官のカメラは視界良好テイクオフ。人>>続きを読む
ヒッチコックが現代に蘇る。マクガフィンは電話、すなわちスマートフォン。
あぁスマホよ、スマホ、私を綺麗にしておくれ。そこに映るは、加工されたもう1人の「わたし」。性的幻想のまなざしが乱反射するこの場>>続きを読む
監獄の誕生、あるいは、パリの大改造。
きたる『1984』年、ビッグ・ブラザーに立ち向かうべく、蜂起したのは狂人空手ガールと犯罪者。『戦艦ポチョムキン』、眠れる獅子が目を覚ます。
月か太陽か。この二項が同一フレーム内で共存できるとすれば、そこに太陽系を望むほどの、すなわち宇宙規模の空間性を見出せずにはいられない。
さらに万一、そこで月と太陽が衝突しあおうものなら、それは陰と光>>続きを読む
見た目で選り好みせず、なんでも食べちゃうピラニアさんは生粋の平等主義者だね。
モデル体型とか、筋肉質で食べても不味そうなのに……ごめん、もっと肥えるね。ゼイニクマシマシアブラオオメが至高よね。
つまらないところは、見(せ)なくていい。世界を切りとり物語を紡ぐのは、観客(および監督)の仕事なのだから。
試しに両目を閉じてみよう。見逃してはならない、という緊張から解放される、この晴れやかさとい>>続きを読む
馬の疾駆は映さず、スリの手際に注視する。このミニマルな作りからして、本作の貧しさがひしひしと伝わってくる(それゆえ映画それじたいが、盗みを正当化するかのよう)。
しかし、である。この運動の貧しさは、>>続きを読む
ビーチは、秘匿すべきはずの素肌を公然と露出できるという点で、プライバシーとパブリックがせめぎ合う境界である。
であれば、ビーチに立つ主人公が、その海の向こうに自由を夢見るのは示唆的だし(あの会社は海>>続きを読む
浜辺は、海と陸の境界線。そして、こと本作に限れば、公私の狭間のトポスとして立ちあがる。くわえて雷雨で荒れ狂う大南原が呼び寄せるのは、フランケンシュタイン的な主題、つまり創造主と被創造物の関係だろう。>>続きを読む
「足音が先に聞こえてくるのは、死の前兆」と、不吉な台詞で幕が開く。
そして、ある場面転換のとき、馬の蹄の音が次のショットよりも先行してやってくるその瞬間、死の音ズレ、もとい死の訪れを予感する。
娼婦に説教するおっさん。女にカッコつけようと、マウンティングしあう強者たちの雄姿は、えてして雄々しいことこの上ないはずなのに、女の薄笑いが、それを忽ちただの虚勢へと変えてしまう。
これがなんとも痛ま>>続きを読む
え、ちょっとまって。お金って人糞でできてたの?じゃあ俺は、ウンコのために、必死になって働いてんの?ばかばかしい。目覚めた。仕事やめてくる。
人はみな、ある意味、異形。誰しも完璧なんてことはあり得ず、身も心も、欠陥だらけ。不完全で歪な様相をひた隠しにしているに過ぎない。
だから本作は、人間の潜在的な醜さを暴露する。銃弾によって産みだされて>>続きを読む
本音と建前が併走してゆく結婚式。言外にある不穏さが、凡百な光景をドラマティックに仕立てあげる。
なお、この危うさに一役買っているのが、序盤の新婦のヴォイスウォーバーで、ここで彼女に罪を懺悔させること>>続きを読む
「子どもたち」と謳うわりには、男の子と女の子の描き方には偏りがあったように思えた。
とくに終盤は、非行少年との対話に終始していたので、非行に走る子どもたちの内実に明るくない私のような観客からすれば、>>続きを読む
中国資本によって破壊され再構築される日本像。
IMAXのスクリーンサイズに即するように、縦に伸びた超高層ビル群が、富士山を取り囲む。字幕の「東シナ海」も考えもの。
実相寺アングルも見方によれば、隠しカメラのそれ。役者をマルチアングルに、しかも舐めるように撮るせいで、なんだか盗撮映像を見てる気分になってくる(わざわざIMAXで見たのに!)。
こうした断片的な映像>>続きを読む
口が吐き出す愛の囁きよりも、煙突が吐き出すガスの揺めきのほうに心を奪われる。
他者を自分のものにせんとする言葉が、いかに空虚なことか。世界を見よ。統御がとうてい及ぶはずもない、その溢れんばかりの豊か>>続きを読む
なんかキモい。男を情けなく惨めに描いているのは好印象なんだけど、それよりも女を都合良く幻想的に描ていることからくる不快感のほうが上回ってしまった。
2人を平等に客体化する写真的な演出が効果的だっただ>>続きを読む
バイオレンスやセックスを『オズの魔法使』の語彙で語り直せば、聞こえくるのは愛の凱歌。
『ロスト・ハイウェイ』でもそうだったけど、暴力もあえてバカバカしく見えるくらい過剰にやれば、その荒唐無稽さのおか>>続きを読む
自分の肉体にメスを入れ、腐った臓物をぶちまけるように、その醜く穢れた父性愛を、リンチは恥じることなく曝け出す。
実の子に恐れと嫌悪を覚える父親。しかし、その脆弱で怯懦な父親像こそ、50年代アメリカの>>続きを読む
即興演出で生まれる沈黙が、人種問題の言うに言われない緊張を画面に醸しだす。
安易に言葉で語らない(あるいは語れない)感じ。できることは、口をむすんだその顔を、ただカメラが写すこと。台本なしの演出だか>>続きを読む
法定速度を遵守したような緩やかなスピード感覚は、リンチの作品からすれば、かえって異様に映る。
アメ車が夜道を爆走することはないし、物語が脱線することもない。真っ直ぐで一途、心温まる作品。
原因と結果の因果関係をつかめないから全体を物語として理解できないのであり、ともすれば、それは脈絡のない夢がそうであるように忘却を伴うことをまぬかれえない。
現にこの映画の細部なんてものはとっくに忘れ>>続きを読む
役者をx軸上に突き落とすことを映画が倫理的な制約をもって許さないのであれば、リンチは画面の奥、その深淵にむかって落下運動を完徹させる。
安全圏で傍観する「観客」の胸ぐらを、グッと掴んで、暴力の渦中に>>続きを読む
銀幕にくりかえし顕現しては、はかなく消える妖艶なスター。それはさながら亡霊のように、誰かの脳裏に棲みついて離れない。
そういえば『レベッカ』(1940)との比較検討がなされた論文をまえに読んだことが>>続きを読む
悪行のかぎりを尽くした非行少年らは、それ相応の報いを受ける。身から出た錆。しかしその錆が逆照射するのは、欲に塗れた大人たちの卑しさだった。
ブニュエルにしては珍しい、地に足のついた表現。画面のなかで>>続きを読む
人生はロングショットで見れば喜劇だが、クロースアップで見ると悲劇になる。
序盤はスラップスティックのような筆致で、アル中の奇行をお嗤い草に、しかし後半はクロースアップを駆使して、悲しみで歪んだ泣き顔>>続きを読む
緻密な照明設計が、心の翳りをそのまま画面に定着させる。後景で伸縮をくりかえす男の黒いシルエット。身体の輪郭が二重に分裂したり、一つの形に収斂したりと、彼の不安定な精神状態がいみじくも描出される。
と>>続きを読む
ロボコップのまだるっこしい挙動も、歯切れの良い編集のおかげで小気味よく見れる。
合間合間にTVコマーシャルが流れるが、それらに通ずる映像そのものの躍動感を、さらに言うなら、そのTVコマーシャルの映像>>続きを読む
『時計じかけのオレンジ』。シンメトリカルに治められた少年審判のシークェンスは、お行儀よく整然だ。しかし、その秩序はさしずめ、形式的なものだろう。
事実、増幅する暴力衝動は、ついに映画表現の形式を内側>>続きを読む
シュワちゃんのセリフ数、たったの16。その無口なキャラクターに反して、映像と音楽はことのほか雄弁で、物語の展開を加速度的に盛り上げてくれている。
だからアクションが鈍重でも、語り口じたいは小気味よく>>続きを読む
男性の妊娠を描いたコメディで、当時のウーマンリブの影響が見てとれる。
しかしだからといって、へんに説教臭いということはなく、あくまでコミカルな語り口が徹底される。もちろん今の感覚からすると、ツッコミ>>続きを読む
一方は眼球を破裂させ、もう一方は白眼を剥いている。そして暗転する画面。
この暗黒色に、底知れぬ恐怖を覚えるのは、窃視者たる観客さえもが疑似的に失明を体験してしまうからだろうか。それとも、その巨大な黒>>続きを読む