複製されるシガニー・ウィーバー。一方は廃棄され、もう一方は銀幕を飾る。
さて、主人公を主人公たらしめるものは、いったい何か。
伏し目がちな顔から、艶っぽい流し目。そして時折見せてくれる笑顔の儚さ。
原節子の些細な表情のうごきを、カメラは見逃がさない。
女が女をやめた世界。
子殺しという禁忌を犯し、性規範だけでなくジャンルの不文律からも解放される。
金の切れ目は縁の切れ目。金にがめついイヤな女が、久しく忘れていた恋慕の情に胸をおどらせる。
こうした内情の発露が動的なものから、静的な表現へと収斂してゆく。この落差が、なんとも切ない。
息もつかせぬ長回しのシークェンスに、退廃した都市のヴィジュアル。どれをとっても隙がない。
とくに車中での長回しはお気に入りで、楽しげな雰囲気が一転して阿鼻叫喚の巷と化す過程を、カメラワークの妙技によ>>続きを読む
クリーニング店では、洗濯が仕事になる。だからなのか、父母の役割分担もいささかフレッシュに見える。
とはいえ、戦後における家族の多くは、流動化ないし多様化を余儀なくされた。戦争で夫や息子を亡くした家族>>続きを読む
『これがロシヤだ/カメラを持った男』(1929)を再創造。頭がカメラになった人間、人とモノの映像をつぎはぎしたモンタージュ。博士のいう創造物とはいったい。
ちなみに、たった一つの大切なカメラには攻撃>>続きを読む
はなればなれだった親子を結ぶ指切りげんまん。今度は、約束を破らない。そう言わんばかりに、肩なめの切り返しとツーショットが親密な空間を立ちあげる。
誠実であれ、真面目であれ。嘘や欲望が渦巻く夜の街では>>続きを読む
(たぶん俗にいうところの)エントロピー増大の法則。未来へタイムトラベルすればするほど、人類は逆説的に退化の一途をたどる。
これは無秩序の度合いが大きくなることを意味しているが、しかし、こうとも言える>>続きを読む
大学でクロースアップに関する講義を受けた際、取り上げられていたのが、高峰秀子のあの顔だった。
哀感とも解放感ともつかない、名状しがたきあの表情。あらゆる言葉を沈黙で包み込む、圧倒的な強度に絶句。
うだつのあがらない研究者が、立身出世の精神に狂わされる。
ゆえに透明な身体だけでなく、その背後にある有害な男らしさも顕在化する。個人的にスパイダーマンのヴィランたち、とりわけエレクトロの姿を重ねてし>>続きを読む
在りし日の思い出か、それともあり得たかもしれない彼らの前途か。最後のフラッシュバックが叶わぬ夢のフラッシュフォワードとも読めてしまうのは、仏印のジャングルと屋久島のそれが交換可能なものとして巧みに配置>>続きを読む
それぞれの作家性が遺憾なく発揮されている4つのエピソード。
たとえばスピルバーグ。夢とも現実ともつかない光景のなか、はしゃぎまわる「大人」たちの姿がなんとも眩しい。大人になりきれない大人、子供>>続きを読む
一つの情景を二重化させる、成瀬の比類なき超絶技巧は『浮雲』などにも認められる。
本作ではズーム・イン/アウト(つまり回想の可能/不可能)の対比によって、それを演出する。遠く離れた父親に、娘は思いを馳>>続きを読む
1895年、H・G・ウェルズが『タイム・マシン』を発明する。時を同じくして、リュミエール兄弟も「映画」というタイム・マシンを発明した。
座席に固定されたその乗客が、あらゆる時空を行き来する。こうした>>続きを読む
女性文芸家の半生を詩情豊かに綴る。ここぞというときの力強い筆致には、はっと言葉を呑んでしまった。
高峰秀子のあの真に迫る表情よ。
冷戦下のSFで言えば、『ウォッチメン』と同じ系統の作品だと思う。
赤狩りや原子力エネルギー。こうした見えない脅威との戦いが、陰に陽に展開される。それにしても6年前に原子爆弾を落としたアメリカが、これ>>続きを読む
血のつながりだけが全てではない。
家族を家族たらしめるもの。血縁よりも確かなもの。それを提示して、映画は終わる。
実存主義的な不安は、フィリップ・K・ディックらしい主題。
くわえてトリップや宇宙開発は、じつにアメリカ的。宇宙と同じくらい、あるいはそれ以上に、人間の内面には人類未踏のフロンティアが広がっている。
男の不在。日本家屋を舞台にしながらも、そこに男たちの姿はない。
このような女の世界を垣間見て、どこか物珍しさを覚えてしまうのは、男性中心的なものの見方にすっかり馴致されているから。
僕はトリュフォーに似ている。恥ずかしげもなく、こんなことを言ってみる。
父親の愛を知らずに育った僕たちは、学校そっちのけで映画に傾倒してゆく。彼がバザンを慕うように、僕も映画学者=批評家である恩師の>>続きを読む
喧騒のなかの静謐さ。それがなんとも愛らしい。
また女性映画としては、家出、そして家庭への回帰を描いている。女性の社会進出をほのかに感じさせながら、保守的な価値観を再発見させる、戦後特有のバックラッシ>>続きを読む
狂言回し(とともに観客)の大局的なまなざしが、「母親」の姿を分裂させる。
朗らかな母。気が触れた母。不老不死で、魔女でもある母。どことなーく、グリム童話っぽい。
ハリウッド映画をつくったのはユダヤ人の男たちであった。故郷を追われ、拠り所を失った同胞たちを慰撫する。これがハリウッド映画のもつ無国籍性といえる。
そして、アケルマンもまたユダヤ人である(かつ同性愛>>続きを読む
ドタバタ喜劇、ディズニーアニメーション、オズの魔法使、ターミネーター。いろんな要素の継ぎ接ぎでできたチェインソーマン。
スーパーパワーは、呪いでもある。なので地下に棲まう死霊が、空からの英雄として崇>>続きを読む
ヒッチコックを見ているのかと。『めまい』のような追跡劇や型破りな「切り返し」。わけても、男女の切り返しには心底驚かされる。というのも定点カメラによるフラットな映像こそ、アケルマンの持ち味なのだと勝手に>>続きを読む
家のなかって、そのひとの人間性が表れますよね。
強盗を描きながらも、こうした人間の内面をテーマにした映画だと、ノーランの『フォロウィング』(1998)を思い出す。
女の家事なんてものは、物語映画において、カットされて然るべきもの。
語りの経済性を鑑みれば、それをわざわざ見せることは物語にとっての余剰でしかなく、女が家事をする場面ほど不経済なものはない。ゆえに、>>続きを読む
この瀆神的な教訓劇から何を学べるか。
不条理や自己犠牲。しあわせを分け与えるよりも、苦しみを分かち合うくらいが丁度いい。
ユダヤ系のアケルマンにとって、「ホーム」(駅の乗降場、そして家庭)と強制収容所は地続きにあるのかもしれない。
はやく孫の顔をみせろ、家に嫁げと、ナチスの残党が自由を奪う。帰宅ラッシュの時間帯。その列>>続きを読む
ジャンル的想像力を駆り立てながらも、しかしその期待を大胆に裏切ってゆく作劇法は、A24のポスト・ジャンル映画などにも通底する。
ただ、この作品がA24ほどの成功を収められていたかどうかは一旦保留。
いきりたつイチモツをへし折るような技有りの女性映画。性行為をエロスとして覗き見していたら、途中からプロレスを見せられる。
こうした冷ややかな見方は、長回しのロングショットや説明的なナレーションによる>>続きを読む
母が子どもを産んだ年齢に、僕もなろうとしている。
そこでようやく気づいたことがある。性の異なるこの母親も、一度も会ったことのない父親も、僕と同じでまだ子どもだったんだなと。25歳の今日、僕は少しだけ>>続きを読む
見守るから見張るへ。こうした監視の危うさを忘れてはいけない。
『トゥルーマン・ショー』よろしく、ひとの日常さえもがエンタメとして消費される。ライブ配信全盛期の現状に警鐘を鳴らす。
ミドルエイジ女性の痩せこけた身体にはシワやクマ。しかし、その姿はたちまち、ばっちりメイクの「健康な身体」へと変貌を遂げる。このような変身は、メイクや美容整形のビフォーアフターであると言ってもいい。>>続きを読む
原作小説を読むのが億劫だったので見たのが本作。
その粗悪な映像体験が、『変身』はちゃんと原作を読むべしと、ぼくの横着を戒めてくれる。