このレビューはネタバレを含みます
CGのクオリティはさておいて、、、(光学迷彩とかタチコマの動きとか、見どころもあったけど、劇場版APPLESEED EX MACHINAから15年も経ってるのにこの進化程度なのかと思ってしまった)トータルとしてはやはり一気見してしまう面白さはあったと思う。
ただ、ラストについては個人的には少しモヤモヤが残るというか、「全身義体にも魂は宿るのか?」ということについて誰よりも意識的であったはずの少佐が、ウィザード級のネット使いであるにも関わらず、自身のネイチャーを規定するために義体という身体性にこだわっていたはずの少佐が、ダブルシンクという意識上、ネット上のifの世界を選択した経緯の描き方に物足りなさを感じてしまった。
神山氏は過去作においても『攻殻機動隊』という容れ物を借りて、経糸としてその時代の世相を代表する様々な社会問題を物語に反映させつつ、そこに文学作品の引用を緯糸として物語を作りあげてきたので、今、この時代に再び『攻殻機動隊』を作るのならば、持続可能社会、ネットによる不特定多数の集合的無意識によるバッシング、そしてメタバースといった記号がキーワードになることは当然だし、それらのキーワードを取り込みながら、ネットの発達により容易になった監視・統制、そしてSNSによって垂れ流される偏向情報による思想誘導の帰結としての全体主義的社会への警鐘として、『1984』を引用したことも筋が通っている。
それが最終的に「個々の手に選択を委ねる」という結末につながっていることも分かるのだが、その事象を引き起こす"ポスト・ヒューマン"という存在の背景を描くためにシーズン1の大半を費やしてしまったが故に、シマムラタカシやミズカネスズカが、Nたちが、江崎や少佐が「その選択」をするまでの葛藤についての深掘りする時間が少なく、また同様に"ダブルシンク"という重要なキーワードも登場が突然すぎ、そこについてもやはり深掘りが足りなかったことが結末への「駆け足」感を生み出してしまった要因だと思う。
あと、舞台設定として、あえてSACとかよりも後の話っぽく時間設定をしてスタートしたのに、なぜ"笑い男"オマージュのタカシ君や、"個別の11人"オマージュの難民や米帝との関係という構成を持ち込んだのかもよく分からないし、あげくフィニッシュが『ゴースト・イン・ザ・シェル』エンディングのオマージュって、、、SACと地続きの世界観にしたいのか、まったく別の世界観として提出したかったのか、既存ファンに対しても、ネトフリ新規組に対してもあんまり意味ないような気がしました。
なんかこう、張り切りすぎていろいろ詰め込み過ぎたんじゃないかなー。
『マトリックス・レザレクションズ』に対して期待していたメタバース的構成によるifストーリーを、『マトリックス』の発想の起点にもなった『攻殻機動隊』が扱ってくれたことはとても感謝してるんですけどね。