ゆりやんレトリィバァがお笑い芸人であること、それはまったく問題じゃなかった。ゆりやんレトリィバァの声がやわらかすぎること、それもまったく問題じゃなかった。彼女にドラマの主役を演じ切る力があるかどうか、という演技力の問題も、実はこのドラマにあっては大した問題じゃなかった。
はっきり言って、白石和彌の人選はほぼ完璧だった。
このドラマのために作り上げた体形とプロレスの試合シーンがそのことを物語る。人物同士がぶつかり合う迫力を目一杯感じさせるカメラワーク、観客や実況の歓声と怒号、何よりも、嘘の無いキャストの体形と身体の運動。これによってプロレスの面白さはたぎる熱とともにがっつり伝わってきた。特にラスト5話における伝説の「髪切りデスマッチ」。ダンプ松本と長与千種の因縁対決はこのドラマのハイライトであり、ぶっちゃけこの試合のために本作はあると言っても過言ではない。
だから所々で人物の心理描写が薄く、表面的な性格しか見えてこないことも、ダンプ松本の過去話にある程度尺を取っている割に、彼女が「極悪女王」へと切り替わるのが唐突なことも、父親を始めとする家族との確執がなあなあに解決してることなども、実際大した問題とはならない。
なぜならこれは、髪切りデスマッチを新たな角度から見るためのドラマだから。あの伝説的な試合をリアルタイムで視聴していなかった人にもわかるように、あるいは見ていた人も舞台裏の確執も含めて伝わるように作られているドラマなのだから。
正直、このドラマにおけるゆりやんレトリィバァの存在は前半かなり希薄で、話の中心に居るような居ないような適当な立ち位置だったりする。そして本人もそれを良しとしている。
とは言っても、史実を元にしているのだから、途中経過で盛り上がりに欠ける部分があっても仕方無いのかもな……とも思う。だが同時に、いや「プロレス」なんだから、決められた「ブック」があるはずだよな、とも思い、そのリアルと筋書きの狭間がどこにあるのか、筋書きを壊す展開もまたプロレスの一部なのか、「ドラマ」として再構成したときに必要な書き換えだったのか、ちゃんと調べればわかるのかもしれないけれど、そこがよくわからず、わからないことが特別な味わいとなっていく。
ラスト5話における「髪切りデスマッチ」にはそのような、史実で起きた出来事を見ている感覚と、プロレスというリアルと物語の狭間を象徴するスポーツを楽しんでいる感覚と、ドラマというフィクションを楽しんでいる感覚が同時にあって、唯一無二の感覚に陥った。
そして、個人的にはこういう話に弱いというのがある。物語の中で物語内の何かが超越する話。「ブック」という筋書きをぶち壊す、というドラマ的な筋書き。物語の中で物語が一線を飛び越える瞬間。単なるメタフィクションとは違う、あくまで物語内の出来事であることが重要だ。これは、そのような、筋書きを超越した瞬間のカタルシスを描いた物語だった。
つまり本作を見ていて私には胸が躍る瞬間が確かにあったということ。だからたぶん私はこのドラマが好きだ。なので、出来不出来に関しては正直もうよくわからない。