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あまちゃんのYMのネタバレレビュー・内容・結末

あまちゃん(2013年製作のドラマ)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「『あまちゃん』と宮藤官九郎についてのいささか遅すぎた所感」

宮藤官九郎作品強化月間のメインにして初朝ドラ完走。全26週(一話15分×一週6話)は最初こそ長く感じたが、観終わったあとでは、なんと愛おしい時間であったかと思わずにはいられない。これをリアルタイムで追っていた人は、はたして、つづきを気にせずきちんと日常生活を送れていたのだろうか?

思えば、本作が放映されていた2013年の大晦日、紅白歌合戦で『あまちゃん特別編」と銘打った、当時の未見の私としては「寸劇」としか言いようのない不思議なものを観た記憶だけは、ついに鑑賞を決意しDVDを手にとったときにもあった。まったく知らない私は、出てくるネタすべてがわからないために、「ダサい曲」と「サムいノリ(朝ドラに対する偏見のもととなる)」に小っ恥ずかしいものを感じたことをおぼえている。だいたい、小泉今日子が役名「天野春子」で歌うってなんだ、「ユイちゃん、今からこっち来てけろ~」「♪暦の上ではディセンバー~」なんて、いったいぜんたいなんなんだ……、と。

しかし、さすがに見逃したままでもいられない。なんとなれば、いままでのいわゆる"大河"とはまったく違う、けれどまさしく人々の激動の歴史=大河を「オリンピック」と「落語」という目線から描いた『いだてん(2019)』にハマったあと、すこし間をおいて錦戸亮×満島ひかり+黒島結菜の『ごめんね青春!(2014)』(なかなか配信も再放送もされない)を観、次いで『監獄のお姫さま(2017)』に突入し今度はドSでイケメンで人情たっぷりの満島ひかりに完全に落とされたあとならば、ここまでクドカン作品を観てきたのに代表作との呼び声高い『あまちゃん(2013)』をスルーしていてはいけないと感じるようになったのである。
その話数の多さと、紅白回のあいまいな記憶から、「見たい超見たい!」と思っていたわけでもなかったため、なんとなく後回しになってしまい、他の作品を観たあとにさかのぼることとなる。それゆえ、宮藤官九郎の作品発表年でいえばめちゃくちゃな順番で突きすすむことになった。だが、だからこそ、これまで観たクドカン作品におけるあらゆる場面やキャラの造形が『あまちゃん』の変奏でもあったことを知ることができたのかもしれない。私が宮藤官九郎にハマるきっかけとなった、おなじNHKのドラマ作品である『いだてん』の通奏低音がここにもあったのだということは、ひとつ、宮藤官九郎の作品姿勢を明確にしめすものだと思う。

「なんも考えんと、走ればよか(金栗四三=中村勘九郎『いだてん』)」の、「今まで勉強してきたこと、ぜんぶ一回忘れましょう。それが映画!それが芝居!(鈴鹿ひろ美=薬師丸ひろ子)」「だったら考えずに飛び込め(天野夏=宮本信子)」という変奏。あるいは、映像芸術における演劇的遊び。「説明している時間はなか! 続きはまた来週(池部幾江=大竹しのぶ)」「というわけで、あまちゃん、いってみよー(OP音楽)」「軽快な音楽をやっているうちにいつもの『あまちゃん』になると思いますんで……」「15分は短すぎる……」のある種メタ的なナレーション。
なんなら、天野アキ=能年玲奈と足立ユイ=橋本愛のそれぞれの悩みはそのままストックホルムでの金栗と三島の悩みとなる。そして、野生の天才と、名家の秀才のそれぞれの屈折からくる悩みは、「地方(田舎)対東京」という図式にも延長されていくのである。本作で採られた「地方対東京」という図式で思い浮かぶのは、おなじように回と年月をかさねた大作ドラマ『北の国から』がある。だが、両者はかなり違うと言っていいだろう。『北の国から』では、富良野という地は、「東京」へのアンチテーゼとしてのみ存在していた。五郎=田中邦衛はいしだあゆみの不倫をきっかけに、浮世を捨てるかのように富良野へ出向く。そこでの息子の純は、物語の初めこそなじめず文句たらたら(「電気がなくてどーすんですか」)だが、東京に帰るたびに、育ちの違いを見せつけられたり馴染めなかったりで問題を起こし、北海道の各地を転々としたのち、結局は富良野へと帰る。そのなかで、「東京」は「人の冷たさ」の象徴として、純を傷つけ、疲れさせる存在として機能する。
翻って、『あまちゃん』ではどうか。10回あたりで天野春子=小泉今日子が言う。「田舎がイヤで飛び出したヤツって、東京行ってもダメよね。逆に田舎が好きな人って、東京行ったら行ったで案外うまくやれんのよ」。そして春子は、場所じゃなくて人なんだ、と結論づける。または、「私に会いたければ北三陸に会いに来ればいい(ユイ)」のように、いや現にオタクはイベントごとに集まっているし……でも、それでも田舎はやっぱり田舎……というギャップとコンプレックスの入り混じったものは、『北の国から』時点では描かれていなかった。こうしてみると、『北の国から』では富良野(北海道)の懐の深さと一方での厳しさと、人情物語に対するヒールとして、明確に愛憎半ばする無機質な"物質経済社会の地"と描かれた東京観も、今作ではかなり薄まる。薄まるというよりむしろ、単純ではなくなる。

80年代からテン年代に至るまでに随分薄まった田舎と東京の分断は、それでも埋まらないものとのあわいによって、あたらしい繊細な心情を産みだした。それを今作は丁寧に拾いつづける。
「腫れ物扱い」もキータームで、もとは北三陸の人間による、北三陸を捨てて東京に行き(この辺、『北の国から』における清吉=大滝秀治の「お前ら、いいかァ……負けて逃げていくんじゃァ……そのことだけは、よぉーく覚えとけ」を思いおこされる)、そして夢破れて逃げかえってきた者に対しての態度であり、お互いがお互いにそれを跳ねのけ、乗り越えていくことがひとつの物語の進行役となっていた。それが、最終盤をさかいに、今度は"被災地"として全国から「腫れ物扱い」される。「夢破れ帰った者」をあつかう物語の前半と、後半の被災後をあざやかに繋ぐこの着眼点がすばらしい。そして、「被災者」として全国から寄せられるその視線をいかに跳ね除け、乗り越えていくのかというのがクライマックスであり、物語はこれまでのすべてを収斂させながら、まるで必殺技であるかのように「お座敷列車」を繰りだし、その終着点にド直球で臨む。

震災といえば、まさにその回における「うへー明日お披露目ライヴなのに、どうすんだ(アキ)」といったセリフも良かった。あの日、たしかに大事が進行していたのにもかかわらず、ことの重大さはわからずに、「なにかたいへんなことがおきているようだけど」とボンヤリ頭の片隅で思いながら、平時の営みを維持しようとしていた。そのことを、ほかならぬアキ(すぐ太巻に言われ実家方面に電話を掛ける仙台のずんだ娘ではなく)に語らせる巧さ。他にも、実際に3.11をどこかしらで体験していた者にとっては、「こんなこと、あったあった」という”追体験”の連続ではなかろうか。
一度も直截な描写をせず、テレビの中継も映さず、模型の破壊と小泉今日子の語りにのみ抑える、表象不可能性への挑戦。おそらく、『あまちゃん』の震災の、模型を使った表現は当時としてはそれがギリギリのラインを攻めたものであったのだろう。そこでのやりのこしはフラストレーションとなり、後年の『いだてん』での容赦のない関東大震災描写へつながっていく。『いだてん』における関東大震災描写と東日本大震災との類似を挙げればキリがないが、とりあえずひとつあげるとすれば、増野=柄本佑だろう。増野の語る後悔──「はじめてシマに文句を言ったんです……あんなこと言わなければよかった」──の普遍性は、そのまま、東北の、日本各地の「日常の突然の分断」という被災体験に接続可能だ(余談だが後日観た『ごめんね青春!』で、主人公の兄=えなりかずきに「飯が堅えなあ、こんなもの食えたもんじゃない」というセリフがあり、同じネタを使うにしても『いだてん』とのギャップに思わず笑ってしまった)。そして『いだてん』でも『あまちゃん』でも、増野のような”後悔”の体験談ばかりでもなく、同時に立ち上がっていく姿をも、それが増野のような者にとっては残酷に思えることも言及したうえで描いていく。日本各地から寄せられる、善意と「腫れ物扱い」の視線を同時に受け取りながら「復興」を決意する北三陸のキャラクターたちの姿は、当時、現実と伴走していたのではなかろうか。
ただ、震災回の前の週の最終回、何回も3月11日という日付を出しつつ、なにも知らないキャラクターがそれまでと変わらぬ日常を送ってくのを見せ(「この間の地震も大きかったな」という会話をする)、遂に昼下がり、ユイが明日12日に控えたGMT(田舎っぽい埼玉アイドル役に松岡茉優、という面白さがクセになった)とのお披露目ライヴ参戦のため電車に乗ったところで……「ではまた来週!」といわんばかりにその週を終えるというのは、ある意味、引っ張り方としては重たいものがあり、ヒトデナシだと思うのだが……(笑)。週があけて、そのあとにつづく大吉=杉本哲太がトンネルの先を目指し、調子外れないつもの「ゴーストバスターズ」を歌いながらトボトボ歩きだす場面は屈指の名シーンだろう。この、「お約束」ができるチャンスを絶対に逃さずに使い、シリアスなくせに唐突にいつもの笑えるネタを組み込むというのは、『いだてん』第39話(最高傑作)における、自殺を図った志ん生が圓生に冷水を掛けられて金栗ばりに「ひーやー!」と叫ぶ、というシーンと類似しているだろう。
お約束といえば、歌を使うシーンというのもあり、『監獄のお姫さま』最終回の留置所での「晩ごはんのうた」、『いだてん』の出征前の「自転車節」……等々の構図も、夏の手術を待つあいだに「いま夏さん死んじゃったら私泣けないわ、知らないもの」とつぶやいた春子のまわりで漁協の人々が橋幸夫を歌うのも、同じクドカンの「お約束」だった。

さて、ここで最初へと戻る。私が「朝ドラをココでやんのかよ」と、小っ恥ずかしく感じた紅白回。ドラマ最終回まで観終わったら、ようやくそこに至る準備が整ったということになる。はたして、印象は変わったか? 結論からいえば、こうも変わるとは思っていなかった。かつて観るのが恥ずかしかったこの紅白回が、じつは笑えて、なんと清々しく美しく、感動的なものであったとは、思ってもいなかった。「天野春子」というクレジットの意味、なんとなれば、あの不可思議な魅力あふれるアキの呼びかけによって、あんなにも軽々とユイはトンネルを抜けて東京は渋谷のNHKホールに来てしまう! それまでの百五十数回による積立が、その意味を十二分に発揮させる。まさに万感の思いといっていいだろう。この「最終回」こそは、ドラマ放送枠=フィクションを乗り越え、紅白という国民番組=リアルになだれ込んでくる様は、現在進行系の「復興」を描くことで現実と伴走していたからこそ切ることのできたゴールテープであり、ひとつの事件であったのかもしれない。完走してみればどっと疲れ、虚脱感=ロスに似たものをおぼえたのも確かだ。終わってみればたった26週で波瀾万丈をよくまとめたなと思わずにいられない。フィクションにあるべきあらゆるものを詰め込んで、こんな大作を届けてくれてありがとう。私は改めて、(いささか遅すぎたものではあるが)、礼を言おうと思う。ありがとう。
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