しょう

エンジェルフライト 国際霊柩送還士のしょうのネタバレレビュー・内容・結末

3.6

このレビューはネタバレを含みます

以前どこかでタイトルを聞いたことがあり、また、国際霊柩送還士という職業にも興味を唆られたので視聴。
死を扱う職業の視点から、死を通して交錯する様々な人々の想いを見ることができた。

ドラマだからこそ「最期のお別れをちゃんとしないと後悔する」というエゴが終始描かれている。
そしてドラマなので、カタルシスを覚える別れが多かった。

しかし、本来ならきれいなお別れである必要はないのではないだろうか。分かり合う必要はない。心を通わせられて良かったねである必要はない。
ただ、遺体としてであっても、この世に形がある最期のタイミングで向き合って、相手に何を思うか、自分の中に何を見るかを確認した方が、たとえ心の中であるものが元々雑然としていても整理されることになるから。
個人的にはそう捉えた。だから究極、整理した先が、目を背けるでも、それ以上向き合うことを選択しないでも良いのだと思う。

そもそも「死」を取り上げる機会は何のために、誰のためにあるのだろう?
「死」がもたらすものは不幸でも幸でもない。ただ、失わないと見えなかった現実が浮き彫りになるだけで、不幸や幸は結果でしかないのだろう。
「死」は故人だけでなく、生者にとっても節目であり、きっかけなのだ。
「そんなことなら失う前に…」「失わないと分からないなんて…」「失って初めて気づくって…」となるのは自分も同じ気持ちだが、きっかけがない以上、それを掘り下げるのは酷な気がする。
きっかけがないと動けないことは、生きている私たちだからこそ、思うところがあるはずだ。

さて、上記のように本作を捉えたので、各話わだかまりが解消した感じで終わりを迎えたのは、正直あまり好きでなかった。
でもそこは凛子さんが言っていた通り、生きている人が勝手に解釈して、好きなように「星座」を作っており、その目線を通して「死」を見ているからだろう。「死」をどう捉えようと、それは生きている者のエゴの域を出ない。エゴなのだから、大抵の人は自分にとって心地よい解釈をするし、傍目から見て苦しんだ解釈をしている人も、実際はその解釈に救われているのではないだろうか。
「死」を利用していると言うと聞きなりが悪いが、「死」が「生」に干渉している構図は放っといてもただそこにあるのだ。だからこそ、解釈が求められる。「死」は「生」がどんな選択をするかを静かに提示してくる。

「死」がもたらすものは、悲しみであり、絶望であり、憤りであり、自分自身である。
「死」にどう対するかで(あるいは対さないかで)、その時の自分を推し量る。
そうして、生きている者は今日という日を生きていくのだ。
しょう

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