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終りに見た街のmaoのレビュー・感想・評価

終りに見た街(2024年製作のドラマ)
3.9
2024年。家のローンを抱えていながら代表作と呼べる作品もない脚本家の田宮は、ある日テレビ局のプロデューサー・寺本から、終戦80年記念スペシャルドラマの脚本を依頼される。膨大な資料を読みながら寝落ちした田宮が轟音で目を覚ますと、家族と家ごと昭和19年にタイムスリップしていた。


ネタバレ↓↓


局は跨ぐが話題となった「不適切にもほどがある!」、「新宿野戦病院」のコミカルさをイメージして最後まで視聴した人はかなりダメージを喰らったと思う。

かく言うわたしも冒頭の「刑事7、8人」でゲラゲラ笑っていたクチだし、クライマックスでは「あら?前編だったかな」と録画タイトルを確認した。しかも今日は1年の中でトップ3に入るほど仕事が忙しく、心身ともに疲弊していてコンディションが悪いときに観てしまい、かなり重たいものが胸に残っている。


〝多様性なんてクソ喰らえ〟

「不適切にもほどがある!」で描かれた、コンプライアンス遵守や過度な配慮を強いられることによる現代の息苦しさ、うっすらと降り積もる不満。軍国主義がそれらの輪郭をはっきりとさせ、解放していくことに恐怖を感じる。

多くの視聴者を大困惑させた寺本Pは一体何者だったのか。

まず、田宮たちはほんとうにタイムスリップしていたのか。

1、実際はタイムスリップしておらず、寝落ちしたまま核爆弾の被害に遭った田宮が今際の際に見た夢。寺本から受けた仕事の資料を読み耽り、スマホから寺本の音声が流れていたため夢に影響を及ぼした。

2、実際にタイムスリップしている。核爆弾の衝撃で昭和19年に逆行し、空襲の衝撃で202X年に戻ってきた。

タイムスリップがただの夢で、202X年の戦争だけが現実だった場合、最期に見た幼き日の母とその想い人の姿はなんなのか。

田宮家の中で唯一戦争を経験した母。現代の象徴であるスマホを踏み抜き、田宮に送ったあの視線は、そのままわたしたちを見据えているようにも思える。

あのタイムスリップが夢なら、さまざまな立場で田宮の前に現れた寺本は、ただ田宮の脳が外から影響を受けていたための存在だろうか。田宮たちに都合がいい動きをしていたのは、田宮の夢だったからだろうか。寺本を追いかけていたはずが振り向いたら違う顔だった、それも夢であるからだとしたら説明がつく。膨大な資料を頭に入れていたからこそやけにリアルだったのかもしれない。

ただそうなると、単なるプロデューサーである寺本が高額な地下シェルターを用意し、さっさとそこに逃げ込んでいたというのは無理がある。

なので、わたしは「寺本はタイムトラベラーであり観測者で、すべて彼の描いた画だった」説を推しておく。(細かいところはもう、書かなくてもいいかという気持ちになってきた)もちろん、自分の逃げ道だけはしっかりと用意して安全圏から弱者を見下ろす社会的強者のメタファーでもあったとは思う。

と、まあいろいろ考えはしたが、きっとメッセージは断固たる反戦、そしていつまでも「戦後」をすっかり越えた平和に浸りながら政治に対する無関心を貫く国民への、「いつ戦時中に『逆行』してもおかしくはない」という警鐘。

現実世界でも、国民の望まない法令が猛スピードで制定、施行され、憲法改正を掲げる政党が力を持っている。

「ポツンと一軒家じゃん」と大騒ぎする田宮たちを描きながら本家「ポツンと一軒家」のCMをぶち込んでくるユーモアと、いつ砕けるか分からない薄氷の上で胡座をかいて娯楽を貪る人々をピリッとさせる鋭さ。田宮の苦痛に喘ぐ声が響く暗澹たる結末は、いつかわたしたちが終りに見る景色かもしれない。
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