青

平清盛の青のレビュー・感想・評価

平清盛(2012年製作のドラマ)
3.8
2024/7/29 全話完遂
「一連托生」の一族が見事に散ってしまった。清盛が死んだこと以上に、清盛が大切にしてきた者たちが斬首とか入水とか討死となった事実に苦しみを覚えた。25話過ぎから面白くなってきて、最後まで完遂することができた。まさに諸行無常を追体験するドラマだった。逆に言うと、序盤はあまり面白くない。お馴染みの少年漫画的展開が多く、引き込まれなかった。ただ、若かりし頃の無垢で無邪気な清盛像は、晩年期のすべてを手に入れた清盛との強烈な対比を為していたので、我慢して視聴することが正解なのかもしれない。

最終回の構成がやや駆け足で残念だった。個人的には、綺麗にまとめずとも、清盛の志は頼朝には理解されずに室町時代まで持ち越しとなりました、という幕引きでも満足だったかな。清盛による武士の世をつくるという信念は頼朝が引き継いだわけだが、一族を大事にするという心根は継承されず、頼朝はその後の血で血を洗う陰謀と戦の時代を作っていった。「武士とは勝つことだ」という清盛の武士の定義からすれば、頼朝が描く世は武士に相応しい世なのかもしれない。諸行無常らしく、清盛の無念を濃く反映する最終回にしてほしかった。平家の物語なのに、最終回の見せ場として義経討伐が配置されたことが気に入らない。壇ノ浦の扇のエピソードとか、徳子のその後とか、平家の諸々のその後を見せてほしかった。清盛なくして武士の世なしという頼朝のナレーションが救いである。(『鎌倉殿の13人』を観て、その後の源氏に絶望すればいいのかもしれない)

ELPの『タルカス』がいい味を出していた。タルカス自体も物語の形式をもつので、平家を物語る作品と相性が良かったのかもしれない。月並みな発想になるが、タルカスの最終章「アクアタルカス」は戦車が海に帰るお話らしいので、壇ノ浦に散った海の民平氏のための曲のようだった。

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【以下、鑑賞中の各話感想】
『虎に翼』に出演中の松山ケンイチが気になって鑑賞。
高く評価されている大河だという噂はかねがね。私には歴史の教養が無いので、きっかけになればなおいいかなと。

【1話】お金かけてるなーと思えた1話だった。/「お前は平家に飼われている犬だ。俺の元でしか生きていけない犬だ」という台詞に痺れた。/なんか聴いたことのある次回予告だなぁと思ったらタルカスじゃん。
【2話】出自への疑問と葛藤から実存をかけた問いが生じて、その問いに自力で回答するという一連の流れは、歴史物の主人公にとってお馴染みの展開ですね。/「好きにせよ」という発話の意味は、文脈相対的であることがよく分かった。/松山ケンイチの目つきは、それ自体はかなり若げなのだが、錆び付いたとでも形容できそうな重厚感を帯びており、年齢不詳な印象を抱かせる。
【3話】この時代の愛憎渦巻くドロドロした感性は気が狂っていて逆に好きだわ。/平氏御曹司と源氏御曹司の好敵手関係は少年ジャンプっぽくて好き。/たしかに、なぜ父は清盛を平家に置いておきたがるのか、謎だ。清盛への単なる愛情だけでなく、政略的な理由がありそう。もしくは、清盛の中に舞子を見出しているのか。
【4話】藤原のなんとか(國村隼)は武士を排除したいので、平氏を天上から追いやるために源氏を利用したあげく、別に源氏が共倒れしようとどうとも思わない、とな。今の時点では、源氏は王家の犬だが、平氏は虎視眈々と転覆を狙っていますよ、と。源氏はなりゆきで平氏の繁栄に協力したことになったため、源平間の本当の決着は次世代まで(正確には次の次の世代まで)お預けとなった。因果よのぉ
/ごちゃごちゃしていないopだなーと思ってはいたが、ここまで観てきてそのシンプルさは配色を際立たせるための工夫なのだと分かった。配色に工夫が感じられて、勝手に感動している。平家といえば赤。その赤に対して、死んだ色である黒と、補色となる緑が用いられている(赤の補色は青に近い緑なので、opにおける新緑の色とはやや異なるが、明度なども考慮されたと仮定すれば補色のチョイスとして新緑の色は納得できる)。黒と緑によって、赤の鮮やかさが際立っている。緑の草原の場面の後に、暗い雰囲気を背景に赤い装飾が施された兜の清盛が配置させると、まさに赤じゃん!(平家じゃん!)と見入っちゃった。(映画『アメリ』の配色も似ていて、まさに赤が印象に残る映画だった)
【5話】ここに何かを書く頃には人物名を忘れている現象に名前を付けたい。/放送当時2012年頃は、パイレーツ・オブ・カリビアンが流行っていた頃か。ごちゃついた衣装やら髪型やらに既視感がある。
【6話】海賊王に俺はなる、な兎丸(加藤浩次)と、日本の王に俺はなる、な清盛。/薄暗い画面にホコリが舞うから余計に暗くて、刀さばきがよくわからなかった。おそらく当時の流行りの映像表現だったのだろうと思われるが。/2024年に鑑賞すると次回予告のタイトルが凄いことになっておる。女優陣が綺麗すぎ。
【7話】明子さんの人格的な造形をつかめぬまま二人が婚約してしまったので、私は「清盛が認める人ならまぁいいのか」と納得を放棄してしまった。
【8話】ぐうの音が出ないほどの正論、「なんとまぁ、気が遠くなるほどの愚かさよ」。最強の罵りと哀れみを含んだ語をゲットした(私が)。/山本耕史は嫌味の似合うキャラばかり演じてますのぉ
【9話】たまこ様に同情しかけた(情が流されかけた)けど、愛しさが分からないだけではなくて、人の痛みとか苦しみも分からない人だろうと思い直した。ほんとうにしょうもない人なのかもしれない。/ドラマの設定からすると、清盛と後白河院は同じ父をもつ(しかも白河院)のか。ジョジョみたい。
【10話】今回そんなに面白くなかった。いわゆる王道ストーリーを捻りなく見せてくるので、つまらなくはないのだが面白くもない。展開に裏切りがないから、惹き込まれない。/今のところ、清盛の父しかキャラとして深みのある人物がいない。/最後、花びらが多く舞いすぎだと思う。→調べて知ったのだが、佐藤義清は後の西行で、西行は桜の歌人として有名。だから、暴力的な桜吹雪だったのか。
【11話】視覚的な鮮やかさが無いので、映像に引き込まれない。こう思うのは、一方でOPが鮮やかなせいもある。本編では淡い色、しかもくすんだ色が多用され、その色が空間的に重ねられているので、画面の色彩が全体的にボヤついている。このボヤつきが「埃っぽい」とか「画面が汚い」などと評価された所以なのではないかなと思った。/引きの画があまり無いので、人間の密度が高くなり、画面がうるさいと感じる時もある。/締まりの色がないとも言えるのかな。『鎌倉殿の13人』の色鮮やかな映像と比べてしまった。/物語内の出来事が心証に訴えてこない。/ネガティブな感想が出てきてしまうのは、このドラマに期待していたからかも…。(OP曲は好き)
【12話】皆、何かを踏み台にして生きてるなー。清く美しいものでも、欲がなければ生まれない。/花を摘んできただけでライバル関係が再活発化する御曹司二人。/清盛は己を内省することが出来ない人なんですね。弟の頭角やライバルの帰郷によって、やっと自分の仕事と役割を自覚していたことから、そう思われた。婚約にしても同じ。周りから言われてようやく自分の感情の正体に気がついていた。/それとは対照的に、明子さんの音色を忘れたくないという想いが裏腹にあることは、早い段階から気が付いていた。
【13話】冒頭に解説が導入された。歴史解説系の番組みたい。/面白くなってきたのだけど、演出が惜しいというか…。もう少しカットを少なくして、間を持たせてほしい。衣装とか演技とか言葉の余韻に堪能させてほしい。清盛がうるさいキャラなので、画面の構成やカットは淡々としていてほしい。痒いところに手が届かない。/鳥羽院にとって清盛は己の血を浄化する矢であるのだが、それと同時に鳥羽院を滅ぼす決定打でもあるのでしょう。鳥羽院は清盛たちを流罪にすればよかったものを、「流罪にしない」ことを正当化するために、またもや血に支配されて狂った判断をしてしまったわけだ。
【14話】得子と山本耕史の会話が大好き。山本耕史「院は身分の卑しい人に媚びるのが好きなんだね」→得子「それは私のことか」→山本「何かお心当たりでも?」/山本のいう「身分の卑しい人」とはこの会話では平家のことだが、得子のことも暗に指している。得子は自身の身分がコンプレックスなので、自分に向けられた嫌味だと早とちりしてしまった。山本は得子の身分については明示的に語っていないので、「そんなことは言っていない」と言い逃れすることが出来る。山本はこうすることで、得子の身分が卑しいことを示すだけでなく、得子に得子自身について卑しいと認識されることに成功した。すげー/当時の貴族と武士の間には、いわゆる「契り」とかいわれる男色関係があったと理解して良いのか? 戦いながら慰め役になるなんて、武士は大変だ。
【15話】清盛について、「いちいち仰々しい」とはたしかにそう。/山本耕史はちゃんと腹の底を明かしてくれる超素直な悪役なんだね。/音楽の使い方がなんか違うんだよ~。この場面でこの曲?というチョイスがちらほら見受けられる。
【16話】昭和のジェンダー観を平安に転送して、それがあたかも普遍的な感性であるかのように見せている。現代視聴者が理解できるように恋愛や夫婦関係の描写を加工しているため、価値観についてチェリーピッキングをしていると感じた。(このような感想をもつのは『虎に翼』を見ているせい)/ナレ死!/「父よ、さらば」の父は、源氏にも該当しそう。
【17話】平家の家族の絆を再確認する回でした。身内の結束力の強さはマフィアのごとき。天皇達やんごとなき方々が身内同士でドロドロした政策争いをしていることと対比されていた。/正直、詠まれた歌の詳細な意味をすぐさま味わえる瞬発的な読解力が私には無いので、清盛による歌ではない歌の方がよく理解できた/なんどでも繰り返し述べるが、制作側は昭和の価値観を平安に転送して、それが普遍的な価値観であるかのように見せている。/頼・盛・家・朝・成・義、これらの語を適当にペアにしたら、絶対に誰かを名指すことができる説。
【18話】松田翔太の演技はそれほど好きではないのだが、涙がつとっと垂れたときお顔の美しさにびっくりした。/疫病で人がパラパラと亡くなる時代だものね。身体の強さは武器だったのだろうな~と緩く思うなどした。/鳥羽院がもつ人間臭さといい人みが、いい感じに無能さを醸し出していていいですね。/清盛は今のところ誠実な実直な主人公。さて。/(追記)崇徳帝が詠まれた歌は、ラッセルのパラドックス?
【19話】源氏の泥沼具合がいい。我が子をもって我が弟を殺す。/時子の妹を品定めする場面は、大河ドラマといえど普通に嫌な気分になりました。/あなにくしの和歌はドラマの創作なのね、なーんだ。/理想を捨てた清盛。ポジションを示さねば、一族を護れないことに気がついた。松山ケンイチ、ギラつきダークネス。
【20話】ドラマが面白いのではなくて、歴史が面白いのでは。/おじうえ(名前忘れた)は自身がもつ清盛への拒絶反応を自ら利用して、平氏を守る訳か。負けることは分かっている、しかし本心から清盛側には付かない。しかもこの選択が、もしも清盛勢(帝側)が負けたときに備えるための最善策であることも織り込み済み。/身内と敵対する痛みを共に抱えて、後のライバル源氏とタッグを組む。熱い。
【21話】奢れるものは久しからずな藤原頼長と諸行無常な燃えっぷりの御所。かつてパワハラとモラハラを受ける現場となった職場が、移転に伴い跡形もなく解体された様を目撃した経験が私にはあるので、燃える御所を呆然と観る清盛に対して、「その気持ち、分かる!」と盛り上がった。/ドラマの訴えとしては、身内同士の戦いに悲痛な響きをもたせているが、天上の人々も武士も皆、身内同士で戦っているので、その悲痛さが平常運転に見えてしまわなくもない。身内を切る覚悟は立派である一方で、身内すら裏切るものは誰をも裏切りそうだな(誰かを裏切ることの十分条件が、身内の裏切りということか笑)、と思った。/孔子の言葉?「理にかなうなら動け」を、理にかなうと判断して動くことを命じる信西と、動かないことを正当化するために理にかなっていないと述べる頼長の対比が素晴らしかった。一見すると孔子の言葉の対偶のように見えるが、実は裏である。
【22話】松山ケンイチの成長記になっている気がする。戦が終わった後、妻に会った直後の「うん?」がめちゃ良かった。/髭切。/強大な兄をもつ弟の苦悩。/合理的な判断と情が矛盾して涙する藤原パパ。サイコパスのように映るのがいいですね。鎌倉殿の大泉頼朝にも通ずる矛盾だった。
【23話】遊びをせんとや(斬首)/編集が巧妙だった。叔父とその息子達を切った清盛の悲痛な叫びが全面カットされたからだ。斬首の場にいなかった者だけでなく、我々視聴者も、清盛の心の内側を窺い知ることは出来なかった。つまり、清盛に対して謎が生じてしまった。そうなってしまえば、これからは視聴者は清盛を得体の知れない部分のある人物として見るしかなくなる。/頼朝の誕生。/『鎌倉殿』の前日譚だなぁーと改めて思う。時代が被っているから当たり前なのだが。斬首を見せつけられる頼朝像と大泉頼朝像が一致した。
【24話】信西の見えない刀に対する、清盛の取らない相撲なのかな。/清盛が身内に対してだんだんハラスメント気質を発揮してきている?なんだか、張り付いたような笑顔が怖い。/源氏の棟梁が情けない奴なのがめちゃんこいいよね。清盛の横に並べる器ではないという描かれ方をしていて。
【25話】清盛と義朝の爽やか系ライバルエピソードを挿入してからの、野望が全開な信西暗殺計画の流れは、視聴者の義朝理解を歪める気がする。いや、…いいのか。ライバル関係を歪んだように認知して、どんな手段を使ってでものしあがる、それがこのドラマの義朝像なのかも。/とすると、義朝なくして清盛なしのナレーションから、義朝が愚かにも目先の一族の繁栄に目がくらんで闇堕ちすれば、清盛もそれに続いて近視眼的な思考で闇堕ちするのかもね。
【26話】回想シーンに長く尺をとる演出はあまり好きではない。/やはり音楽の使い方が好みではない。基本的にうるさい。/義朝は愚かだ。一族の繁栄とか武士の栄華などという大義を掲げておいて、実は個人的な好みが行動原理になっている。清盛の首を取りに行かせればよいのに、崇高だと信じているライバル関係を盛り立てるために信西を殺し、清盛の帰りを待ってしまう。/清盛の志はなかなか理解されない。おそらく今後のお話の展開としては、清盛は自らが最も強い毒となってこの世の毒を制してみせると決意する…という流れだよね、これ(『鎌倉殿』じゃん)。/清盛の息子は聡明で、割と躊躇なく合理的な最適解を選択できる人材だ。史実では、清盛は信西を見殺しにしたのか(源氏と藤原さん達を打倒する大義を得るため)、それとも必死に助けようとしたのか、どっちなのだろう。/阿部サダヲの演技(というか存在感)は良かった。無念の退場。
【27話】今まで視聴した回の中で一番面白かった。ようやく面白いと思えた、という否定的な評価も付随する。/清盛の策略が分かりやすく、義朝側が賊軍として孤立する流れが見事だった。賀茂川で平氏を源氏が対峙した場面では、清盛の方が何枚も上手であることがよーく分かった。/清盛と義朝のライバル関係を視聴者に分からせるための描写がしつこいと感じた。やや漫画的。それが良いのかもしれないが、同じ一文からなる台詞を文節ごとに交互に言わせる演出はちょっと臭いな。/義朝に留めを刺せない清盛は、やはりどこかで平氏の内側にあっても孤独を感じていて、同じような境遇の義朝に自己を投影していたのではないだろうか。理解者を殺すことはできない。しかしそうすると、清盛にとっての義の重さが 信西<義朝 となってしまう。この不等式を成立させるような選択をして本当に良かったのか、清盛を問い詰めたい。/それか、両方の友を失うことは避けたかったのかもね。/松山ケンイチには申し訳ないが、兜と刀の重さに体幹が負けてしまい、チャンバラ場面でヨタヨタしていることが目立つ。むしろ、それが本来のチャンバラの姿だったのかも?
【28話】今回も面白かった。/清盛からすれば、義朝から一方的に破られた約束を、その子である頼朝に託した形になるのか。好敵手のいない世界では、もはや勝利という概念はない。つまり、「武士とは勝利である」という清盛流の武士の定義からして、源氏なき平氏は武士ではなくなってしまうのだ。/清盛の野望は、平氏の世を作るのではなく、武士の世を作ることにすり替わっている。「清盛なくして武士の世なし」と冒頭で解説する頼朝が、そのことを一番よく分かっているわけですね。/不純な清盛、いいですねえ。あーなるほど。清盛は常磐を生かしておきたいが、それでは周囲が納得しない。だから、常磐を生かしておく理由を作るために、常磐を側妻にしたのか。/このドラマには新生児かと思うくらいのホンモノの赤ちゃんがバンバン登場しますね。
【29話】癖毛の美しさよ、万歳。コピペ美人にならない滋子よ、万歳。唯一無二の存在を求める上皇様の心にも響いたのかしら?かわいい。とはいえ、この時代の自由恋愛はさすがに創作ですよね。/癖毛を馬鹿にされたら、顔を馬鹿にし返せばよいのか。いい煽り方をゲットした(私が)。/宋の器って淡い鶯色がデフォなの?上皇様への献上品を見て、マ・クベを連想した。(追記: 「宋磁」というらしい。へー)
【30話】観光で厳島神社に行ったことがあるのだが、時代背景等の知識ゼロで参拝したため、もったいないことをしたなぁと今になって思う。/特殊メイク仕様の崇徳院はかなりおぞましかった。ゾッとした。夢に出てきそう。/因果関係がないにも関わらず、次男の死と崇徳院の呪詛を視聴者の私が因果づけていたことに途中で気が付いた。呪詛の効力は凄い。/(ところで、次回から三部なんだね……一部と二部の境はどこだったんだろう…)
【31話】修羅の道を進むことが清盛の役目。んーやっぱり、清盛の本心は分からない。誠実な仮面を被った策略者なのか、あれこれ画策する奥底に誠実な人物が潜んでいるのか。/後白河上皇は清盛という人物をよく見抜いているように見える。だから後白河がつぶやいた言葉に真実があるように思う。/今のところ、池禅尼が想いを託した人達は悲惨な末路を辿るという法則が観測されているよね。息子といい叔父上といい。清盛の父は舞子の存在によって池禅尼から疑義をかけられていたから寿命を全うできた。そうすると、想いを託された清盛を始めとする平家一門は、法則の通り、悲惨な末路を辿ることになる。
【32話】高みに登ったからこそ味わえる苦しみがあり、それをも楽しむ、とな。賽の目はどうにもならない。/八重さんとのお子を、「清盛に見つかったら終わりだから」という理由で殺された頼朝。だから、頼朝の心は打倒清盛に傾いたという描写になっていたが、ふつーに考えて頼朝が源であったがゆえ、つまりお子が殺された理由は頼朝の側にもあるのではと思った。/藤原三兄弟が話し合う場面の、画面の構図にときめいた。帳の縁がそれぞれの目線を隠すか隠さないかのぎりぎりに設定されており、奥ゆかしさ全開の画だった。どこかの回でも、清盛の目線が紅白の飾りに際どく邪魔されてよく見えない構図があり、おっ!と思った。同じ演出家(渡辺さん)の計算なのかもしれない。
【33話】遊びをせんとや生きていたらいつの間にか50歳になっていた清盛。清盛に限らず、皆さんそうなのではないかな。私もあれこれ楽しんでいるうちに気がついたら50歳になっているのかもしれない。人生短い。/沈んだ太陽を再び昇らせたとかいう有名な清盛伝説について、雨の降る日暮れの宴にて清盛が「一日が終わってほしくない」と願い、その後再び日が差した出来事として描かれた。…もしかして伝説とはフェイクニュースの類?/誰の制止も聞かずにふらふら踊り続ける清盛、いいですよね。ダメと言われてもやるのだ。/牛若が平家の子どもたちと遊ぶという描写が残酷ですね。
【34話】神秘的な回だった。やはり回想が長すぎる。これは、20話以降から参加した視聴者への配慮なのかもしれない(要らないと思うけど)。/熱に悶える松ケンをセクシーだなぁと感じてしまいました。(この作品が若年女性から支持を得ている理由ってそういうこと?)/後白河法皇に取り付いた賽は、清盛の手に渡った。/気になるのは、結局、清盛は彼岸であろうかつての御所で、白河院と賽を振ったのか否か。今のところどちらにも解釈できる。賽を振ったから熱病から回復した、賽を振らなかったからこの後、道半ばで生涯を閉じた。/清盛は50歳になっても、かつての上司が記憶の片隅にチラつくから永遠に若手のままである。
【35話】「一蓮托生」のモットーは幻想なのだろうか。/今のところ、清盛の非情な一面は叔父上を斬ったエピソードのみからしか語られていないように思われる。だから、田舎の武士が清盛をそこまで恐れる理由がよく分からない。
【36話】清盛に血筋か才能かの選択を迫れば、おそらく才能をとるだろう。自らがそうであったから。では、なぜ、「平家一門」という血筋に縛られるカテゴリーに拘るのか。これへの解答は、清盛は武士の世を作りたいからという解答と、家族という濃い人間関係への執着があるからという解答の両方の答え方が可能だろう。前者からするとたぶん、清盛にとって、平家一門を貫く共通項は武士であることであり、それぞれの血筋が繋がっていなくてもよいはずだ。だから「一蓮托生」のモットーが大事なのだろう。血筋という分かりやすい繋がりは、清盛が理想とする一族は持ち合わせていないので。ただ、そのような理想が、一族のうちに共有されているとは限らないし、共有されたとしても理解されるとは限らない。清盛の一番の理解者は一族のうちにはおらず(政治力を与えられていない時子を除く)、敵対する法皇様のみであるというのがこれまた面白い構図だ。/滋子様は予想以上に逞しい人でした。アルハラはだめだよ。/法皇とは出家した上皇なのね。
【37話】V6の森田剛が口から生まれたような役を演じているというのが、一部の視聴者のツボを突いていると推測する。/禿(かむろ)は清盛ではなくモリツヨの発案ということになるが、それでよいのか?/重盛は正しい人だが、政治という遊びを楽しんでいないので、父のようにはなれない。道理にかなうという意味で正しい判断をしたのに、それは間違った選択だという評価を突きつけられれば、合理的な人なら何も分からなくなるでしょうね。合理的でない理を分かれなんて、そんなことは不可能だ。まさに次に出る賽の目を当てるようなもの。(私も、一般的には重盛は色々な意味で正しいと思う。なぜ清盛達の選択が正しいのかは説明がつかない。が、ゴットファーザーないしヤクザの世界だからね。北野武なら分かるのでは)
【38話】後白河法皇のなぞなぞが正解になるためには、ある物を食べたら、食べたその人は食べられた物よりも大きくなるという前提が必要では…?/この時代の女の人に自己決定は不可能なんだなぁ〜と徳子を見てて思いました。/「もとより、あいつに流れるのは白河院の血」←これは確かに!と思っちゃいました。/兎丸と時忠の会話は噛み合ってない。兎丸は禿たちの行為の内容の悪さを避難しているのに対して、時忠は禿の行為は禿にとって良いことなのだ(禿のためになることなのだ)と主張している。/いちゃもんを付けると、人物の推論がよく分からないなぁと感じることが私には多々ある。以前、清盛が「賀茂川の水は海に流れるから、海を制すれば賀茂川を制したことになる」と言っていたが、これはよく分からなかった(言いたいことの雰囲気は分かる。が、詭弁では)
【39話】禿の演出がホラーでした。疑問なのだが、福原にも禿がいたの?(追記: 禿の存在自体が創作の可能性があるらしい)/禿が人を殺してしまうのは、善悪の分からない子どもゆえか。時忠はその子どもの無知を利用しているわけである。/平家の悪口を言わせないために禿を働かせることと、「平家にあらずんば人にあらず」が意味することとのギャップが気になった。「平家にあらずんば人にあらず」を本気で信じるなら、今すぐに平家以外を粛清できるのでは。だから、正しくは、「平家の悪口を言うものは人にあらず」なのでは。/義経と弁慶の邂逅という出来事に、義経が出自の真相を知るという意味が付与された。その直後に二つの賽から始まるOPが繋がっており、これは演出として上手い。
【40話】成海璃子の演技は面白いくらいに棒なので、松田翔太の演技が上手く見えてしまう。現代の高校生が当時にタイムスリップしたような雰囲気である。現代が舞台のドラマであれば、素朴な演技として視聴者にウケそうなものの、時代物のドラマではぎこちなく写ってしまう。役者に要請される言葉の言い回しや身のこなしが異なっている。/厳島神社ロケ。堪能したかったので、もう少し画が多くても良かったのに…(観光地の売上に影響するのかな)。エモやインスタ映えの元祖、清盛。
【41話】清盛の老害ポテンシャルが垣間見えた。全てを話さずにむしろ黙って人を操り、裏でしめしめと思っている。陰湿な上級管理職。気に入らないことが起これば、察しろとばかりに横槍を入れる人。/清盛は、己の理想的な国造りの思想は、縦に伸びるものではなく、横に広がるものだと言った(厳島神社のように)。しかし、その横に横に広い思想のために上に上に思考を伸ばし、上に上に視点を向けているのも確か。東国の地の情勢や下々の武士の心境は、思考や視点には入っていない。些末なものとして、排除されている。清盛のいう「横」とは結局スケールの大小ことであり、これまでの「縦」を寝かせたものと相違ないだろう。/このドラマの政子のキャラからしたら、女性蔑視発言にノーと言えてもよいものを。なぜ、あのキャラ設定をしたうえで平然と黙らせておくのか。脚本が悪いね。/乙前はまだ生きているのですね。御歳お幾つでしょうか。
【42話】音楽がかっこよかった。/清盛の本心がやはり分からなくなった。たぶん、清盛も分かっていない。志なのか、復讐心なのか、どちらも正解なのかも。というか、西光に指摘されて、復讐心が入り交じっていることを自覚した(つまり図星であるが故に全力否定しなければならない)のだろう。/これまで志によって突き動かされてきたのは確かだ。王家への復習心のみでは断じてない。しかし、志と呼ぶには戯れがすぎる言動が多かったことも事実。なにせ、後白河法皇と賽の目を出し合って遊んでいるのだ。これは志とは呼べないだろう。それに、義朝が信西を討たなくてもいずれ清盛が信西を討っていただろうという西光の指摘は、そうだとは断言できないものの、絶対に有り得ないとも断言できないものである。/清盛本人の混乱が滲み出ていてよかった。瞳孔がギンギンに開いている松ケンの演技がよいですね。
【43話】忠義を果たそうとすると正しくなくなり、正しくあろうとすると忠義を果たせなくなる。古今東西の二律背反的葛藤ですね。ぱっと思い浮かぶのは、例えば組織内の不正に対して内部告発を思案する状況である。重盛の状況は、忠とか孝とか持ち出さずとも、こわい上司2人から単に板挟みに合っていると表現すればいい。(追記: 格言の意味を取り違えていた、かつ、深読みしすぎた。「君主と親との板挟み」という意味なので、まんま重盛の状況にマッチした言葉だった)/このドラマは優れた作品ではある。だが、「女性」の扱いや描かれ方が、男社会を支えるためのそれなので、視聴を推奨はできない。歴史に誠実ならまだ理解できるが、昭和の価値観を引きずっているうえに、先進的キャラとして描かれる政子のその「先進性」も男社会に釘を刺さないものなので、尚更。/2012年の感性や観点の反映として鑑賞すると勉強になりますね。2012年の私は当時のことをずっと進んだ時代だと感じていたが、2024年から眺めるとそんなことはないのが面白い。
【44話】父上の舞子に対する態度とは異なり、清盛が明子さんを省みないことが気がかり。清盛と時子の仲の良さを示している一方で、清盛が過去を振り返らない人のようにも写っている。/子どもはあの世とこの世を行き来すると言われている。清盛が子どもであるならば、清盛もあの世とこの世の境にいることがあるはず。そのような場面は、21話、28話、34話と、今回で見受けられる。/後白河法皇ももののけの子である。今際の際に残酷な高笑いを残せるのは清盛にもできまい。後白河法皇の残酷な振る舞いは、もののけの血筋であることによって後から正当化されている。対する清盛はナチュラルにヤバさを発揮する。/40年前の双六の再演。あの時の清盛は後白河法皇に負けた、ということになる。なぜなら、後白河法皇は長い時を経て息子重盛を(道具的に酷使するという意味で)貰うことができたからだ。/もう1つ俯瞰的な見方もできる。40年前の双六では清盛は後白河に追い詰められた。その窮地を救ったのは重盛だった。その後の長い政治的策略という双六においても、清盛は後白河法皇に追い詰められた。その窮地を救ったのは実は重盛だった(のかもしれない。おそらく諸説あり)。/松田聖子との場面の直前に、白河院の声が聞こえた気がしたのだけど、気のせい?
【45話】歳は重ねても良いが、老いたくはないと思えた回だった。かつての青い清盛による「俺は誰なんだ」と言う言葉と、全てを手に入れた清盛入道が酒池肉林の心地で「わしは誰ぞ」と言う言葉との対比に、悲しみを覚えた。/かつての白河院にそっくりな清盛入道。孫を帝に即位させるために、義理とはいえ息子に譲位を迫る動きは、まんま白河院だった。頂きからの景色を見ると、そうなってしまうのか。「武士とは勝つこと」という武士の定義からして、勝つことのない清盛はもう武士ではない。武士を忘れているのか、捨てたのかは不明。頼朝の解釈も不明。/「時子には秘密」の台詞で、清盛は視聴者も敵に回した。/松ケンの肌のシミやくすみはメイクの力だよね?初回の広告画像と見比べると、ちゃんと歳をとっていることが分かる。/タルカス節がかっこよかった。
【46話】若い頃の清盛の清純っぷりは、今となっては目に毒だ。闇堕ちではなく、泥沼堕ちという言葉の方がしっくりくる。どこで間違えたんだろう。福原に移り住んでからおかしくなったよね。/頂きは真っ暗なんですね。白河院も真っ暗な中にいたのかな。/以仁王の乱。この人は『鎌倉殿』では実朝役ですよね。
【47話】平家軍は水鳥の羽ばたきを敵襲と勘違いして蜘蛛の子状態になったとかいう、歴史に疎い私でさえ知っている有名エピソード。舞台は富士川。/ヤバめな人達に囲まれていながら、認知の歪まない伊藤忠清や盛国が凄い。/清盛が剣を振るえなかったことよりも、剣が錆び付いていたことがショックだった。
【48話】私は神仏への信仰が薄いので(たぶん)、若かりし頃の清盛が神輿の鏡を射抜いたことはOKで、今回東大寺を焼いてしまったことはNGである、この差異がどこから生じるのか分からなかった。それとも、若い頃は価値判断の根拠は自らの内にあったが、今では都の動向や信仰を参照せざるを得ないことを示しているのか。/神戸の開拓者は清盛という理解でよいかな?神戸出身の人って地元愛が強いよね(偏見かも)/この時の松ケンは20代か。凄いな。
【49話】双六を辞めるとは、すなわち、遊びを辞めることであって、それはすなわち、生涯を辞めるということ!清盛ぃ…(T^T)/そんなことをあの清盛から言われた日には、ひとつの時代の終わりを自覚せずにはいられないよね!後白河ぁ…(T^T)/←こういう反応をするオタク達によって人気なドラマなのだろうことが、よく分かった。
【50話】一門のそれぞれについて、ナレーションで「斬首」とか「討死」とか言われると、苦しくなりますね。それはそれとて、時忠のしぶとさが極まっていて笑いました。/最終回なのに畳み掛けすぎていて、展開に付いていけない場面が多く、逆にゆっくり描いて欲しいと思う場面も多かった。唐突に三種の神器が登場したのでどこからか湧いてきた感が強かった。/清盛の遺言は頼朝向けにも用意されていた、という演出は個人的には許容できる。/義経討伐の描写は必要だったのだろうか…。神木隆之介を配役しておきながらその最期を描かないとなると、それはそれで宝の持ち腐れ感が漂ってしまうものの。小兎丸のエピソードも冗長だったかな。/壇ノ浦の戦いをもう少し堪能したかったな。有名な扇を射抜く例のエピソードが削られたことが残念だった。/最後の清盛の笑顔は童のようだった。松山ケンイチに天晴れ!
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